スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

転職を決断する時(4社目)

 

 

在籍期間 3年3か月

 前職で研究開発部長と微妙な関係になった後、転職活動を開始し、二社から内定を貰い、そのうちの一社に入社することになりました。表面的な雇用条件は悪くなかったのですが、大手の子会社という事で、それが後に、様々な問題となって立ちはだかることなど知る由もありませんでした。

業務内容

 無線機器の構造設計及び強度設計の担当になりました。具体的には機器が落下したときに破損を防ぐためにはどのような部材を選定すれば良いのか、そしてその部材の厚みはいくらにすれば良いのか。また、機器の中のCPUは使用中に温度が上昇するので、その熱を外に逃がす必要があります。(CPUの温度が上昇すると計算速度の低下などが生じます。)その為にどの程度の熱排出をしなければいけないのか、最低限必要とされる機器の容積はいくらか、なども計算します。

 このような機器を安定的に稼働させるための計算を行い、その結果を意匠設計者(実際のモデリングなどを行う)へ引き渡して、機能を満たす筐体を設計してもらいます。

製品の市場不具合が激減

 従来、経験論で設計してきたものを、数値的な構造式で再定義し直すことで、技術基準をドンドン明確化していきました。経験論で見逃していた部分も統計的手法で洗い出し、市場での製品不具合を未然に食い止めることが出来るようになりました。

 やがて、従来製品不具合のクレームの防波堤になっていた、営業技術や修理サポートのメンバーからも信頼して貰えるようになりました。表立ってではないですが、古参の社員や出向社員よりも俺達はお前を信頼しているとまで言って貰えました。

 設計レビューでも出向社員を論破してしまうことも多々あり、構造設計については、その会社で私が第一人者になってしまいました。

使えない出向社員Tさん

 他部署の人達や技術部長から信頼されるようになったのは嬉しかったのですが、使えない出向社員Tさん(品質保証部)を通り越して、私へ直に相談が行くようになりました。正直、次第に私のキャパを超える要望も多くなってきて、疲弊してきました。

 製品の在庫を環境の悪い場所で長期保管したことで、無線機のチップが故障し、出荷前の品質検査でNGになる問題が発生しました。このまま出荷できなければ数億円の損失です。正直言うと、製品の在庫を適切に管理するのは品質保証部の責任だったのですが、その品質保証部が使えない出向社員とド素人の品質保証部長だったので、何も対処していませんでした。

 そこで、私に事態の火消しのお鉢が回ってきてしまいました。私は、製品不具合を起こしているチップを外部の検査会社に委託し、X線、スライス診断などを行ってもらいました。納得出来なかったのは、私にそれだけの責任をオッ被せておきながら、外部に委託する際の費用について、中々決済が下りなかった事です。

 しかしながら、私は最悪自腹で検査費用を払う覚悟で、検査会社に依頼しました。その結果、チップ内部のアルミ基板が湿気によって腐食し、腐食した部分に突入電流が流れた時に、焼損したことが判明しました。

 私が、必死に不具合の火消しをしているにも関わらず、品質保証部員Tさんは涼しい風でネットサーフィン。定時前の不具合対策会議には、用事があるからとバックレれていました。その人たちは親会社からの出向社員で、私よりも遥かに待遇が良いはずなのに、全く責任感が無く、私の心は次第にすり減っていきました。

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ド素人品質保証部長Sさん

 Sさんは、もともと親会社からの出向社員で、営業課長だったのですが、その人を部長に昇格させようとした時に、営業部長のポストが無い(既に別の人が営業部長)という理由で、ポストが空いた品質保証部長(前任者が定年のタイミング)に就任しました。営業畑の経験しかなく、技術は全く分からないのに、製品の品質に対する責任を一手に担う品質保証部長に!!!

 正直、JTC(日本の伝統企業)は遊びで経営やっているのかなと、いぶかるようになって来ました。そいつのメンツを守ってやるために、部長に昇格させて、ド素人の品質保証部長が誕生しました。子会社で真面目に働いている技術者にとっては、迷惑この上ありません。

 使えない出向社員Tさんとド素人品質保証部長Sさんのせいで、今まで製品の品質は滅茶苦茶でした。

 

意匠設計者からの嫉妬

 私が製品設計基準を確立し、他部署からの信頼を強固にするにつれ、私と一緒に業務を行っていた意匠設計者が私に嫉妬するようになりました。その意匠設計者は同じ中途採用だったのですが、その人が経験論で設計してきたものを私が数値的に適切か分析したことで、その人が採用したモデルに無駄があったことが明らかになってしまったのでした。

 次第に私が計算から導出した設計基準や私が選定した部材を守らずに、自分勝手に設計するようになりました。品質保証部が機能していなくても、市場での製品不具合が防げていたのは、私が厳格に設計基準を設定し、その通りに設計してきたからです。それを逸脱した設計をすれば、市場で製品不具合が発生するのは火を見るよりも明らかです。

製品不具合勃発

 意匠設計者が滅茶苦茶に設計したものは品質保証部で、見事なまでにスルーされて、市場にリリースされてしまいました。その設計は、加熱したCPUの熱を十分に放熱出来ない、配線が複雑に絡まりすぎて、電磁ノイズが多発する、中国で生産委託した回路基板が滅茶苦茶(部品が正しい位置に実装されていない、実装された部品が壊れている)などと言った、問題を孕んでいました。

 案の定、製品の納入先の多方面から、無線が安定的に稼働しないなどのクレームが来ました。

また火消し役に

 あろうことか、再度私が火消し役に駆り出されました。正直、もうウンザリな気持ちになりました。しかも出向社員の分まで頑張っているのに、給与が低い。私が提示した設計基準を守らなかった意匠設計者は、ヘラヘラしていて、その態度にも非常に腹が立ちました。私よりも四歳も年上なのに、よくそんな無責任なことができるなと心底呆れもしました。

所詮子会社

 色々悩みましたが、私が勤務していた会社は、所詮大手の子会社だったのです。どんなに頑張ろうと親会社からの出向社員の不手際を片付ける。それが宿命なのです。そして、手柄は親会社からの出向社員のものです。

 さらに同じ空間で仕事をしていても親会社の社員には親会社の給与と手厚い福利厚生が提供されます。その反面で子会社は言わずもがな。出向社員の勤務態度が模範的で、実力もあるならば納得できますが・・・。いくら私が正しい技術論を積み上げても、出向社員の観念論が勝ることも多く、子会社の社員という立場に限界を感じるようになりました。出向社員は無意識のうちに子会社のプロパー社員を一段下に見ており、これを覆すのは尋常ではありません。

 そうしたキャリアを受け入れて、自分を胡麻化しながら仕事を続けるのか、一年位悩みました。そもそも本当は親会社に転職を希望していたのですが、転職エージェントから現在募集していないので、代わりに子会社である当時の勤務先を推奨されたのでした。

 しかし、子会社の社員という立場への限界。こうした見えない身分制度の下、親会社の出向社員の下僕となることに、釈然としない気持ちでした。子会社に入社したことを非常に後悔しました。

ソフト技術者Kさんが上司に

 そうして悩んでいた折に出向社員のソフト技術者が課長に昇格しました。しかし、ソフト課の課長のポストが埋まっていたので、私の課(メカ設計)の課長になってしまいました。(メカ設計の課長は出向社員で、親会社に戻った)

 分野を考慮せずに、人数合わせでポストを適当にはめ込むお得意の人事です。当然Kさんは、メカ設計について全く分かりません。私の報告書を読んでも、句読点や文体などの指摘しか出来ず、肝心の技術報告の内容を理解せず、指示ミスを連発していました。

転職を決意

 ソフト技術者Kさんが、課長に君臨したことが決定打になり、転職を決意しました。ここでいくら頑張っても昇格できず、親会社の人数合わせの人事に翻弄されるのかと思うと暗い未来しか見えませんでした。

 また、中途社員同士で団結することも無く、むしろ中途社員同士で足を引っ張り合い、数少ないポストを奪い合う事にもゲンナリしました。技術の追求よりも政治力優先。ここにいつまでもいても、自分の成長に繋がらない。長くて短い三年三か月の子会社勤務はこうして幕を閉じたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

転職を決断する時(3社目)

二社目を四か月で退職

 二社目の会社を辞めたので、会社の寮を出ることになりました。しかし、このままでは路頭に迷ってしまいます。

 実は二社目の会社に内定が決まった時に、内定をくれた別の会社がありました。急いで、内定をくれたもう一社の社長に電話をかけて、そこで働かせてくれないかと懇願しました。

 電話をした次の日に再度面接に呼ばれて、年明けからその会社で働かせて貰うことになりました。一度内定を辞退したにも関わらず、私を雇用してくれた社長には感謝しかありません。

 その会社は、消毒、消臭効果が高く、環境負荷の低い除菌水の生成装置の製造と販売を行っている会社でした。主なターゲットは病院、動物実験施設、介護施設、調理施設などでした。

在籍期間 一年三か月

 会社自体の居心地は悪くありませんでしたが、結果的に一年三か月で退職することになりました。その会社とは退職後10年経過した今でも仕事上の関係があり、そうした意味では長いご縁の会社です。

研究開発部に配属

 私はそこで、研究開発部の所属となりました。その部署では医療、介護、動物実験施設用の除菌水の効果を分析したり、除菌水生成装置を開発していたりしています。

当初は全く役に立てない

 研究開発部に配属されましたが、前職は電子部品の設計をしていたため、全く役に立てませんでした。このままだと、完全に殻潰しです。その為、まずは他部署で人手が足りない時に積極的にサポートに回りました。具体的にはお客様のサイトで、除菌水によって浄化された後の汚水を排出して、装置を清掃する作業や除菌水を噴霧する装置の部品の交換作業などのメンテ作業を手伝いしました。

自分が出来ることで会社に貢献できる事を模索する

 人手不足の部署の穴埋めの他にも自分が得意で、会社では出来ることは無いかを積極的に見つけました。具体的には会社の定例会議では議事録を書く人が居なかったので、私がそれを行うようになりました。漠然と議事録を書くのでは無く、議論の内容から会社の問題点をあぶり出せるように心がけました。

会社の問題点が見えてきた

 そうしていると会社の問題点が徐々に浮かび上がってきました。その会社は主に除菌水の生成装置、それの据え付け作業(配管工事、噴霧器設置作業)、定期メンテナンスに収益の柱にしてきました。

 しかしながら、こうした案件は一件当たりの案件金額は大きいですが、受注に波があります。このことが背景で、会社の収益も中々安定しませんでした。

 そこで、会社がサイドビジネスとして行っていた、除菌水を小分けにして一般販売している事業を強化する方法を考案しました。従来は小規模の病院や介護施設が、主なターゲットでしたが、ペットショップや動物病院並びにペットを飼っている家庭を更なるターゲットとしました。

 小分けした除菌水を直接に様々な用途先に家庭から法人まで幅広く販売し、そのボリュームを厚くすることで、リスクを分散しつつ収益フローを強化できる見込みが立ちました。

上層部の反対

 そうは言っても、私はまだ入社して数ヶ月、営業部長も、研究開発部長も聞く耳を持ってくれませんでした。しかし、何故か社長だけは私を応援してくれました。

 私は会社の地元の市を中心にインターネットで潜在顧客を洗い出し、そこに向けてテストマーケティングを行いました。特にペット関連は、会社が取り組んでおらず、またターゲットとして有望だったので、そこに向けて、サンプル品を持ち込んで、使用してもらうことにしました。

 除菌水をスプレーに詰めて、カタログを一緒に動物病院やペットショップに配って回りました。社有車は使用出来ず、全て自転車で一軒一軒回りました。自転車で行けない場所は電話でアポを取り、そこにサンプル品を送る地道な作業を繰り返しました。

予想通り好評

 テストマーケティングは予想通り好評で、大型ボトルを定期購入したいと申し出るペットショップも現れました。ペットの独特のにおいを消臭する除菌水は従来もありましたが、ペットの目や鼻などの粘膜に触れると炎症の恐れがあるなどの問題点がありました。その会社の除菌水は粘膜に触れても問題無いので、安心して使用できます。その点が非常に好評でした。

 また、ペットは少子高齢化の進行によって、飼育数が年々増えていて、これからの需要が多く見込める分野でした。(独居老人が飼育する需要が伸びている)

オリジナル商品の開発

 テストマーケティングの結果を受けて、ペット向けのオリジナル商品の開発部着手しました。会社から商品名を募り、パッケージやポップ資料は女性社員に頼みました。大型ボトルの定期購入に乗り出してくれたお店が、実際にオリジナル商品を店頭に置いてくれることになりました。

 自分が先頭に立って、会社の新事業を創出することが出来て、非常に満足することが出来ました。

研究開発部長との衝突

 こうして会社の新事業を打ち立てることに成功したわけですが、生成装置を開発した研究開発部長はそれを良く思っていませんでした。うちは生成装置を開発している会社なのだから、生成装置をメインに売るべきだと反発されました。

 社長が間に入って取り持ってくれましたが、ぎすぎすした空気は中々改善されず、徐々に居心地に悪さを感じるようになりました。

上らない待遇

 日本の昔ながらの風習が根強い中小企業だったので、年功序列であり、結果を出しても待遇が上がる訳ではありませんでした。給与は上がらなくても、裁量権を与えてくれて、自由にテストマーケティングをさせてくれるなどであれば、良かったのですが、自転車で拡販活動するにも限界が見えて来ました。(出来れば電車を使用して遠方まで行きたい)

転職を決断

 そこのまま会社にいても研究開発部長との衝突は避けられない事、新事業の土台をある程度構築して、会社に一定の貢献が出来た事、裁量権が広がりそうになかった事、(欲を言えばもう少し給料を上げて欲しかった)そうした事から転職を決断しました。

 その会社は土曜日は社内会議と勉強会という名目で出社だったのですが、せめて土曜出社が半日だったら、アルバイトを並行してやることで、会社を辞めずに済んだかもしれないと思うと無念でした。そもそも二社目を緊急退職した私を快く受け入れてくれたことに本当に感謝しかありませんし、それ以上の物を望むのはお門違いかもしれません。

会社に感謝しかない

 様々な要因で会社を去ることになりましたが、この会社には感謝しかありません。給与は低かったですが、私に自由に企画させてくれて、非常に充実した日々を送ることが出来ました。

 本当に大事なのは、会社の知名度や規模では無く、一緒に働く人だったり、自分らしくあれるかなのだということを体感出来て、非常に良い経験でした。

 どんな状況でも自分なりの努力と工夫で会社に貢献できる自信が付いたのは、この会社のおかげでした。

 また、当時70才を超えているにも関わらず、装置の据え付け現場に自ら赴く姿勢には尊敬の念を抱きました。通常の大手企業の社長ならば、現場に興味が無くふんぞり返っている人も多いことでしょう。

 そうした意味でも、辞めるのが惜しい会社でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕たちのリーマンショック

 

 

リーマンショック

 リーマンショックが起きた当時、私は東証一部上場のメーカーの設計開発部に在籍していました。金融界で未だに語り継がれているリーマンショックですが、日本のモノづくりの現場にも大きな影響を与えました。

 まだ私は20代の若手でしたが、その立場から見た惨状を書き残しておきたいと思います。

 

2008年9月に勃発

 私が勤務していたメーカーは自動車、家電業界と深い付き合いがありました。しかしながら、リーマンショックが起きた2008年の年末までは、さしたる大きな変化は無かったように思いました。

 

2009年の年明けから影響が顕在化

 2008年の年末まで、影響が顕在化しなかったのは、四半期のオーダーが2008年の9月(リーマンショック発生時)に既にかかっており、キャンセルが出来なかったからだと思います。2009年の年が明けてから、徐々に影響が顕在化してきました。

金曜日に工場の生産ラインがストップする

 年明けから毎週金曜日に生産ラインがストップするようになりました。そして、生産ラインに携わっていた派遣社員が次々と雇止めにあって、会社を去って行きました。

2008年入社の新入社員が製造応援に駆り出される

 2008年4月に入社した新入社員は半年の研修を経て、10月に職場配属となりました。しかし、まだ戦力にはなりません。派遣社員が雇止めになって、空いた穴は新入社員で埋め合わせるせることになりました。配属された事業所以外の所(数100km離れている)にも必要とあらば、バスに突っ込まれて、生産応援に駆り出されていました。

 寮の隣部屋に住んでいた新入社員はドラムバックに身支度を突っ込まされ、別の事業所に連行されて、そのまま数ヶ月帰って来ませんでした。

部長からの緊急呼び出し

 当時、私は会社の労務委員会(労働組合もどき)の職場連絡員でした。2009年の年明け直後に部長から呼び出しを受けました。そこには別の課の職場連絡員と部課長が集合していました。

 そこで部長から、正社員の給与カット(従業員の同意が無いので本当は違法)、既婚者への住宅補助の廃止などが、一方的に通達されました。職場連絡員は抗弁する隙もありませんでした。既に決まったことだから、後日それぞれの課へ情報展開するように言われました。

職場へ情報展開

 私は辛い気持ちで一杯でしたが、部長から通達された事を職場に展開しました。特に結婚したばかりの社員に、住宅補助が廃止になったことを伝えるのは非常につらいものでした。もちろん、反論する社員もいましたが、同席していた部長から一蹴されて成す術もない状況でした。サービス残業も多い中、住宅手当だけが唯一の救いでしたが、それが廃止になると家計への負担が重くなります。さらに基本給のカットもあります。皆、一様にうなだれていました。

 最後に部長が、私は三十年近く会社にいるが、こんなにも会社が変わるのは初めてで、私も戸惑っていると、ついに本音を吐露しました。

食堂利用料、寮費の負担が上がる

 また、従来格安で利用できた食堂や寮の利用費が上がり、これも生活を圧迫して行きました。八畳二人部屋でも我慢できたのは、寮費が安かったからであり、値上げされるのであれば、一人暮らしをした方がマシということで、寮を出る人もチラホラいました。

派遣社員の送別会が毎週開催

 製造現場から始まった派遣社員の雇止めが、ついに設計開発部門にまで及んできました。毎週金曜日には同じフロアのどこかしかで、送別会が執り行われていました。別れのあいさつでは、大の大人が号泣して言葉を詰まらせる場面に何度も出くわしました。     

 定時後は居酒屋に行って、皆でお酒を飲んで最後のお別れをするのですが、毎週の開催はさすがに負担になってきて、二~三週間に一度に、まとめて行うようになりました。

 しかしながら、送別会の参加費は自腹なので、徐々に来なくなる人も出てきました。特に家族を持っている人は自分の家族を守ることで一杯一杯だったのだと思います。特に最後の方では、数人しか出席できないことも多かったです。

自分から去っていく派遣社員

 毎週のように派遣社員が去っていくのを別の派遣社員が目の当たりにしていると、今度はいずれ、自分の番になるだろうと勘づいてきます。会社から辞めろと言われる前に、そうした事を悟って、自分から辞めて去っていく。そうした派遣社員も数多くいました。会社の為に、派遣社員の立場でありながらも協力していたのに、最後はこの仕打ち。自分から辞めるのは彼らなりのプライドだったのでしょう。

派遣社員が従来行っていた仕事もこなす

 従来、派遣社員が行っていた性能測定などの仕事も正社員がこなさなければならなくなりました。そのため、しばらく現場は混乱していました。リーマンショックが発生する前から、恒常的に仕事は多かったのに、さらに仕事は増えて、毎日残業の嵐でした。当然残業代は一銭も出ません。悲惨なのは、どこの会社もつらいので、今の会社が嫌で辞めたところで、次に行くところが見つからないことです。とりあえず、どんなに不満が有ろうと、嵐が過ぎ去るまで耐え忍ばなくてはなりません。

上司が怒りっぽくなる

 そうした中で、従来温厚であった上司も怒りっぽくなっていきました。見積もりでネジ一本余計に含めたミスをしただけで、怒鳴り散らされ、こちらも精神的に参ってきました。

事業所の閉鎖

 会社のリストラの一環で、赤字を出していた事業所を丸ごと閉鎖することになりました。そこに勤務していた社員は私が働いていた事業所に異動することになり、毎週知らない顔の正社員が入ってきました。フロアのレイアウト変更も大々的に行われ、社員の人たちが手分けしてロッカーや机を移動するなどテンヤワンヤな状況でした。

2009年新卒社員

 あれよあれよとあっという間に三か月が過ぎて、2009年の新卒社員が入社することになりました。私たちが入社した時は一か月丸々マナー研修、製品研修、工場見学などが出来たのですが、彼らは一週間だけ基本的な研修を受けた後は、田舎の工場に連行されて、本配属までの半年間ずっと製造応援をさせられていました。

 また、本配属後に支給されたノートPCは会社の倉庫から引っ張り出されてきたようなみすぼらしい中古品で、動作も非常に遅いものでした。

 とにかく、会社はありとあらゆるものを必死で削ろうと必死でした。しかし、派遣社員の自尊心や新入社員の希望まで、ズタボロに削り、会社として本当に大切な物を多く失ってしまったように思えました。

まとめ

 リーマンショックのリアルな現場からの視点をここまで書き連ねて来ました。このリーマンショックは社会人になったばかりの自分にとって、大きなインパクトがありました。会社って何だろう、働くって何だろうという事を改めて良く考えるきっかけにもなりました。

 所詮会社なんて、会社が生き残るためには、最後は何だって食い物にするんだって事が身に沁みました。最後に信じられるのは自分のスキルしかありません。英語なり電気系資格なりを取得して、いざという時に路頭に迷わないようにして下さい。

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テニススクールで初中級から中級に上がるには?

中級が一つの大きな壁

 テニスの初心者が、テニススクールに2~3年間、真面目に通えば、初心者クラスから初級者もしくは初中級者クラスに上がれていると思います。しかし、そこから中級に中々上がれない人が多いのではないでしょうか?

 中級クラスになると、学生時代に部活でテニスをやっていた人も多く在籍し、練習の難易度や練習試合のレベルもグッと高くなります。

 逆に言うと初心者が中級者クラスに昇格して、そこで練習をこなせば、休日のアマチュア大会に参加しても、それなりに活躍出来ます。少なくとも恥ずかしい試合はしなくて済み、テニスをより一層楽しむことが出来るようになります。

 

中級の前で足踏み

 テニススクールとしても、中級者クラスのレベルを一定以上に保つことは死活問題なので(スクールによっては中級者コースが最上位クラスの所も多い)、簡単にクラスを昇格させることはありません。

 私は初心者クラス→初級者→初中級者クラスまでは半年程度でポンポン上がれましたが、初中級者クラスで二年近く足踏みしていました。初中級者クラスのラスト一年から半年の間のクラス内での練習試合は、ほとんど負けることは無い状態でした。正直、初中級者クラスの練習では物足りなさを感じていて、早く中級に上がりたかったのですが、中々コーチからOKは出ませんでした。

 そんな矢先、今学期の残りの練習で問題無ければ、次の学期から中級クラスに昇格してもらいます。練習頑張って下さいとコーチから声をかけられました。

 

中級に昇格するためのポイント

 今振り返った時に、こういったポイントを意識すればもっと早く中級に昇格できたと思ったので、そのポイントをお伝えします。

ストロークやショットは、速さや強さよりも、安定感が最優先

 早くて強いストロークが打てれば、クラス内の練習試合で勝てますが、それは中級に昇格する際にはあまり重要視されません。それよりも安定感が重要です。

 具体的に安定感とは何かを説明します。

・ラリーでは、相手からどんなボールが来ても、相手の打ちやすい場所に正確にリターン出来る

・スマッシュをライン際に正確に打てる。

・ボレーをネットにかからずに確実に決められる。

・セカンドサービスを確実に決めて、ダブルフォルトしない。

以上が、中級クラス昇格に必要な安定感です。

 

ストロークにドライブ回転をかけてリターン

 バックハンド、フォアハンド共に、球をヒットするときに上向きのドライブ回転を確実にかけることで、ボールがきれいな放物線を描いて、相手の深い場所に届く。これを意識するだけで、ラリーのミスが激減します。

 また、腕だけの力に頼らずに片足で力を貯めて、それをボールに伝える意識も重要です。体全体をしっかり使って打てると、安定かつ威力のあるストロークが打てるようになります。当初から速いボールを打とうとするのではなく、体全体をしっかり使うことを意識することで、結果的に速いボールが打てるようになります。

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ボレーはスプリットステップを意識

 ボレーはスプリットステップを意識して、打つ瞬間は横向きになって、ボールを確実にラケットに当てます。体が正面を向いたまま、なんとなくボレーしている人が多いので、ここを改善すると安定します。

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スマッシュはリラックス

 スマッシュもどちらかというと体を横向け気味にして、ラケットを持たない手を挙げて、その手でボールを掴むイメージで、ボールを迎えます。打つときは脱力します。そうすることで、確実にスマッシュを決めることが出来ます。

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セカンドサービスはミスしない

 セカンドサービスは、ボールにしっかりと回転をかけて、ネットせずに確実に相手の陣内に打ち込みことが大切です。むしろセカンドサービスを確実に習得してから、ファーストサービスの練習に取り組むことをお勧めします。

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まとめ(練習のラリーを確実に!!)

 初中級クラスで、二年ほど停滞していた時は、練習試合で勝つことばかり考えていて、ラリーを確実に続けるための基本を疎かにしていました。

 試合よりもまずは練習のラリーに意識を集中することで、中級に昇格することが出来ました。特にコーチとの一対一のラリーでは練習生のレベルをコーチが確認する重要な機会なので、ここでミスをしないことが重要です。中級に昇格出来ずに悩んでいる方は、是非とも参考にしてみて下さい。

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高学歴のアラサー独身女性を見て思う事

気難しい

 あくまでも私の一体験談から来る考察であることをお許し下さい。高学歴のアラサー独身女性を結婚相手として狙うのは止めた方が良いと思います。なぜならば気難しい人が多いからです。

賢いことが往々にして仇となる

 社会一般では長所として崇められる賢さですが、婚活の時にその賢さが様々なノイズとして彼女達に立ちはだかります。

様々な角度から相手を値踏み

 賢いからこそ、結婚相手で外れクジを引かないようにキッチリと見極めたいのだと思います。

 しかしそれが、次第に相手に対する値踏みに発展し、どんなに美人でも聡明な男性は徐々にその方から離れていきます。

男性の勤務している会社の名刺を貰い、会社をチェック

 私の経験ですが、借りた本を返す時に偶然私の名刺が挟まっていて、それ貰っていいですかと言って、自分の財布にしまわれたことがありました。

 相手にとっては自然な行為なのかもしれませんが、何かゾッとしたのを覚えています。

合コンに頻繁に通う癖にいつまでたっても彼氏が出来ない

 毎週のように合コンに通っているにも関わらず、いつまでたっても煮え切らない態度で、見ている第三者も何だかイライラしちゃうんですよね。

 あなたの理想を百パーセント満たす相手なんかいないですからWW

親の職業にも敏感

 自分の親が医学部に通っていたと、何かの拍子でしゃべったら、お父さんお医者さんなの?!という明るいリアクションで食いつきが変わりましたね。

 その後に中退して医者じゃないよって言った時のリアクションと言ったら・・・。

そうした女性に男性は心を許せない

 特に仕事の忙しい男性は、このような値踏みをする女性と一緒になって、心を許せるでしょうか?

 彼女から魅力的に映った、男性の社会的地位や給与が欠落した時、彼女は離れていってしまうのではないかという不信感に男性は悩まされるのではないでしょうか?

 →失敗しまいと見極めようとすればするほど、良い男性は残念ながら離れていくのではないでしょうか?

女性の自立や社会進出との矛盾

 このような高学歴女性は女性の自立や社会進出を表向き支持している筈です。しかし、結婚相手の男性の条件にシビアにこだわることに大きな矛盾を感じるのです。

 真に自立している女性ならば、相手の男性の欠点を自分で頑張って補ってあげようとは思わないのでしょうか?

 もしかすると彼女たちの根底には通常の女性よりも過大な男性依存のマインドが潜んでいるかもしれません。

結婚なんて半分宝くじ

 結婚なんて、半分宝くじみたいなものなんですよ。付き合っているときも結婚後も気立ての良い人だったのに、子供が出来たと途端に激変する事なんてよくありますし。

 そして逆もまた然りです。あまり頭でっかちになって考えすぎず、この人といると居心地良いな、楽しいなくらいの軽い気持ちで結婚したら良いのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

老害社員

一億総活躍

 政府が推進する一億総活躍社会の骨子の一つに定年再雇用があります。しかし、この定年再雇用が中々曲者だと個人的には思います。

 

老害社員がいつまでも居座る

 本当にこれ!!皆様も思い当たりませんか?業務の邪魔ばかりする老害社員がやっといなくなったと思ったら、定年再雇用で、更に数年居座ることになり、暗澹たる気持ちになりますよね。

老害社員の特徴

自分のスタイルを押し付ける

 とにかく自分のスタイルを周囲に押し付けます。元グローバル企業にいた名残で、社内文書は英語と日本語を併記するのを止めません。

 転職先の会社は国内の零細企業で、外国の社員は一人もいません。そんな状況なのにワザワザ英語も併記し、それを周囲の社員に強要します。

 日本語で文書を書いた後に、それを英語に翻訳するため、文書作成時間が従来の2.5倍に膨れ上がってしまいました。(英語に翻訳するために1.5倍の時間を要すから)

話し合って、歩み寄ることをしない

 長年培ったやり方を当てはめてしまうのは、ある意味仕方ないかもしれません。一度、現状を鑑みて、英語併記は止めようと若手社員から提案がありました。

 しかし、俺はこうしてきたんだの一点張りで、全く話し合いになりません。業務効率よりも自分のスタイルが優先で、周囲は疲弊しています。

自分には激甘

 周囲の社員には厳格にルールを徹底させる癖に、自分には激甘です。簡単な社内の業務効率化ツールをマクロで作成したり、簡単なwebページを作成する時でさえ、事前に設計書を書けと要求してきます。

 簡単なシステムであれば、設計書を書いている時間にプログラムは書き終わってしまうので、時間の無駄です。

 その反面、自分は何の設計書を作成せずに社内のデータベース管理の重要なプログラムを勝手にこしらえて、第三者による動作確認試験も行わずに勝手にリリース。

 しかし、そのシステムには重大なバグが潜んでおり、三回ほどアンインストールと再インストールを繰り返す羽目になりました。

 また、昼休みから戻るのが少し遅れただけで、時間を守れと怒鳴り散らす癖に、社長に無許可で勝手に早退したり、本当に無茶苦茶すぎます。

若い人のアイデアを潰す

 会議の場で若手が積極的にアイデアを提案するのが、面白くないのか、アイデアの揚げ足取りばかりしてきます。

 自分は大して働いてない癖に、むしろその若手が頑張ってるおかげで、自分の食い扶持が確保できているのに、そうした若手を潰すとか、本当に終わっていますね。

 こうしたことは日本全国の会社で現在進行形で発生しており、日本企業が衰退するのはある意味自明ですね。

社内政治にだけ敏感

 仕事には鈍感な癖に、社内政治にだけは敏感です。社内メールで資料を回覧させるときに、この人は偉い人だから宛名を~様から~殿に修正した方が良い、封筒が汚い、などといったつまらない指摘ばかり。

 とにかく仕事の本質と全く関係ない形式的な社内政治にばかり気を回しています。そして、それに気を取られた結果、仕事が出来ないという完全な悪循環に陥っています。昔ながらの強固な年功序列意識が染みついて抜けないのでしょう。

会議を滅茶苦茶にする

 高度な会議の話題に付いていけなくなると、いきなり突拍子も無く過去の自分の体験談を話し始め、会議の中心に自分を持って行こうとして、会議の方向がおかしくなることが多かったです。

 また、アクションプランの中でしょうもないリスク要因を色々挙げますが、自分で検証しようとはせずに、若手に丸投げ。リスク検証の報告をすると、俺はそこまでは分からないから頼むという無責任な回答。

→もう、お願いだから、会議に参加しないで。

威張り散らしたい

 自分のちっぽけの自尊心や虚栄心を維持したいために、上記の様な問題行動を起こすのだと思います。会社というコミュニティ内では、周囲の社員がある意味大人だから成立していますが、

 地域のクラブやサークル活動で、そんな態度を取れば、自然と人が離れて行き、孤立化して行くだけでしょう。

老害社員を受け入れる背景

 今までの内容を読んだ上で、何故そんな問題行動を起こす老害社員を定年再雇用で受け入れるのでしょうか?

雇用助成金

 雇用助成金の存在が理由の一つかもしれません。現役時よりも給与が一定の割合以上に下がると、助成金が労働者に支払われます。会社からしてみれば、安い給与で経験者を雇えて、不足する分は行政からの助成金で補填出来るので、入社後に即戦力にならない新卒を雇うよりもある意味お得な側面があります。

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現役時代からのしがらみ

 再雇用の労働者が現役時代に会社の幹部であったなどの政治的な理由で受け入れを断れないことも多いです。

 人事や受け入れ先の部門長が断っても、彼ら再雇用者の同期が会社役員だったりすると、力でねじ込まれます。

 また、再雇用者の取引先に現役時代に便宜を図ったことで取引先に貸しを作り、取引先に再就職をすることも散見されます。

国にとっても都合が良い

 国としても年金の支給を後ろにずらせるので、都合が良い制度です。

まとめ

 働き盛りの人たちにとっては、正直迷惑な存在な人も多い定年再雇用者。現役時代に役職にいた人ほど、過去の栄光から抜け出せずに威張り散らし、職場の雰囲気が最悪に陥る会社も多いでしょう。(もちろん一部には素晴らしい人格者もいます。)

 年配だから、昔は役職についていたからという理由だけでは下の人は付いて行きません。それに見合う技術なり、人間性なりが必要です。しかし、年配の人が長年にわたり形成した人格を強制するのは無理な話であり、私には暗い未来しか思い浮かびません。

 

 

 

転職を決断する時(2社目)

在籍期間四か月

 この会社か四か月で退職しました。会社の契約が明らかに違法で、私にはほとんど非は無かったと思います。

入社のきっかけ

 前職で東日本大震災が私の勤務先を直撃し、岡山県に避難することになりました。そこで避難者として岡山県の支援を受けることになりました。岡山県の就職支援課から私の前職の経歴がマッチする会社ということで、紹介を受けて、面接の後、内定となりました。

いきなりベトナム駐在の宣告

 内定時の契約では岡山県の本社勤務で設計業務を行う事になっていました。しかし、入社三日前にいきなり電話で、人事からベトナムに三年間駐在して欲しいとの宣告を受けました。会社の寮に住むつもりだったので、現在の住まいの契約は解除したばかりでした。よって、突然の宣告に非常に動揺しました。住む場所が無いので、とりあえず会社の言いなりになるしかありませんでした。

二週間の研修

 入社後に二週間ほど製品知識を学ぶ研修を行いました。内定先の会社の子会社のベトナム工場への出向とうことで、本社にいたのは入社の当日だけでした。その後、本社人事に子会社に連れていかれて、そこで二週間の研修を受けるように言われました。本社の寮に荷物だけおいて、子会社の寮にはベトナムに行くための身支度を持参することになりました。正直何が何だか分かりませんでした。

ベトナムへ強制連行

 その後に子会社の社長にベトナムへ連行されました。ビザが切れる三か月の間、ベトナムの工場でアメリカの某通信機器メーカー(GAFA)との工場営業をやるように言われました。滞在するホテルの部屋には窓が無く、精神衛生上、良くない物でした。

毎朝六時起き

 工場は市街地からバスで1時間ほどの場所にあるため、8時の始業に間に合うためには7時前にはホテルを出発しなくてはいけません。そのため、6時には起床している必要があります。起床後はホテルのバイキングで、マズい朝飯とベトナムコーヒーをとります。工場への道は大半が未舗装で、バスで全く眠ることが出来ません。

会議の通訳をやらされる

 取引相手のアメリカの通信機器メーカーは工場監査に厳しく、毎日朝の会議で、歩留まりや生産数の報告会議を開催していました。私はそこの通訳をやらされることになりました。正直誰もやりたがらない仕事です。取引相手の会社の環太平洋部門の責任者(シンガポール人や香港人)が話し相手だったので、英語の訛りがひどく、当初は全く聞き取れません。強いプレッシャーを感じながら、何とかメモをとり、工場に情報展開を行っていました。

 そもそも日本で設計の仕事をやるために入社したのに、子会社のベトナム工場に出向させられて、工場の営業をやることに強い疑問と会社への憤りを感じてしまいました。本社の人事部に抗議のメールをしても、梨のつぶて。人間不信が大いに募りました。

 

工程監査対応

 工程監査の時は製造現場に取引先と同行しますが、現場はクリーンルームなので、防塵服を着なくてはいけませんでした。しかしながら、この服は着ていると汗が体にまとわりつき、息苦しいもので、本当に苦痛でした。

 しかも、取引先は工程の素人のクセにやたら、こちらのやり方に疑問を呈したり、口出ししたりと、精神的にも心底疲れ果ててしまいました。

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工場のマズい昼食

 昼食は工場のマズい食堂の飯しか選択肢は無く、いつも食べるのが苦痛でした。日本人駐在員の一部は日本からカップラーメンを持ち込み、それでしのいでいました。

楽しくない飲み会

 日本食料理屋で、同じ日本人駐在員の飲み会に度々付き合わされました。しかし、日本人向けマッサージ屋や現地の風俗店の話ばかりで、本当にうんざりしました。本当に苦痛で、早く帰りたかったです。

インフルエンザに罹患

 精神的にも肉体的にも消耗し、とうとうインフルエンザに罹患してしまいました。しかし、ギリギリの人数で回しているため、代わりの人員がおらず、無理しながら出社をしていました。会社から帰ると、しばらくベッドに倒れこむ日々が続きました。

同僚が心筋梗塞で突然死

 やはり、精神的、肉体的に困憊していたのは私だけでは無かったようでした。同僚が朝、シャワーを浴びている時に心筋梗塞の発作に襲われて、帰らぬ人になってしまったのです。

転職を決意

 正直、会社のやり方、就業環境、業務内容の全てに不満があったので、三か月が経過して日本に帰国したら、絶対に辞めてやると決意しました。それと共に前職で曲がりなりにも頑張ったのに、こんなクソみたいな転職しか出来ない事に大きな虚しさを覚えたのでした。

 さらにこんな会社を優良企業として紹介してくる社会を知らないクズ公務員にも大きな怒りを感じました。

最終日

 夜七時に送迎バスに乗り込み、バスから次第に遠ざかっていく工場を見て、大きな安堵感を得ました。(やっと日本に帰れる)

 震災で避難し、再起を図ろうとしている労働者をだまして、搾取する会社に対して改めて怒りが湧くと同時に悲しみも湧き上がってきました。

 また、震災直後に様々な会社が、被災者とその家族に対してお悔やみ申し上げますという旨を会社のホームページに記載していましたが、そんなの嘘ぱちだと、いぶかるようになってしまいました。

 これはつまり社会の本音と建て前というやつで、表面的には同情しておきながら、被災者を臨時で雇う気なんてサラサラ無いんだろうと思うに至りました。

(おそらく実際はその通り)

帰国後

 会社を辞めて、寮を出て行くことになったら、住むあてはありませんでした。しかし、とにかく、今すぐに辞めさせてくれと人事に直談判しました。人事からは、退職は認めないの一点張りでした。流石にブチ切れて、大声を張り上げて、やっとの思いで退職が認められました。

労働基準法違反

 そもそも契約と全く違う仕事内容と勤務地で働かせるという明らかな労働基準法違反でした。今だったら、弁護士を会社に連れて行って、こちらがもっと有利になるような退職交渉が出来たと思います。

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入社試験の嫌な予感

 実は入社試験の時に嫌な予感がしていました。何となく会社の正門をくぐると気持ちが重くなるなどの言いようのない気分ののザワツキがありました。確かに、年収などは悪くなかったし、県の就職課も太鼓判を押していましたが、自分の直観を信じるべきだったと後悔しました。

まとめ

 私は良く分からないまま、なし崩し的に入社してしまいましたが、雇用条件と実際の勤務条件に齟齬がある場合にはきっぱりと入社を辞退する勇気も大切です。自分の大事な職業人生を決して棒に振らないで欲しいと思います。

 また、会社が明らかに悪い場合には弁護士を同席させて、交渉することをお勧めします。