スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

僕たちのリーマンショック

 

 

リーマンショック

 リーマンショックが起きた当時、私は東証一部上場のメーカーの設計開発部に在籍していました。金融界で未だに語り継がれているリーマンショックですが、日本のモノづくりの現場にも大きな影響を与えました。

 まだ私は20代の若手でしたが、その立場から見た惨状を書き残しておきたいと思います。

 

2008年9月に勃発

 私が勤務していたメーカーは自動車、家電業界と深い付き合いがありました。しかしながら、リーマンショックが起きた2008年の年末までは、さしたる大きな変化は無かったように思いました。

 

2009年の年明けから影響が顕在化

 2008年の年末まで、影響が顕在化しなかったのは、四半期のオーダーが2008年の9月(リーマンショック発生時)に既にかかっており、キャンセルが出来なかったからだと思います。2009年の年が明けてから、徐々に影響が顕在化してきました。

金曜日に工場の生産ラインがストップする

 年明けから毎週金曜日に生産ラインがストップするようになりました。そして、生産ラインに携わっていた派遣社員が次々と雇止めにあって、会社を去って行きました。

2008年入社の新入社員が製造応援に駆り出される

 2008年4月に入社した新入社員は半年の研修を経て、10月に職場配属となりました。しかし、まだ戦力にはなりません。派遣社員が雇止めになって、空いた穴は新入社員で埋め合わせるせることになりました。配属された事業所以外の所(数100km離れている)にも必要とあらば、バスに突っ込まれて、生産応援に駆り出されていました。

 寮の隣部屋に住んでいた新入社員はドラムバックに身支度を突っ込まされ、別の事業所に連行されて、そのまま数ヶ月帰って来ませんでした。

部長からの緊急呼び出し

 当時、私は会社の労務委員会(労働組合もどき)の職場連絡員でした。2009年の年明け直後に部長から呼び出しを受けました。そこには別の課の職場連絡員と部課長が集合していました。

 そこで部長から、正社員の給与カット(従業員の同意が無いので本当は違法)、既婚者への住宅補助の廃止などが、一方的に通達されました。職場連絡員は抗弁する隙もありませんでした。既に決まったことだから、後日それぞれの課へ情報展開するように言われました。

職場へ情報展開

 私は辛い気持ちで一杯でしたが、部長から通達された事を職場に展開しました。特に結婚したばかりの社員に、住宅補助が廃止になったことを伝えるのは非常につらいものでした。もちろん、反論する社員もいましたが、同席していた部長から一蹴されて成す術もない状況でした。サービス残業も多い中、住宅手当だけが唯一の救いでしたが、それが廃止になると家計への負担が重くなります。さらに基本給のカットもあります。皆、一様にうなだれていました。

 最後に部長が、私は三十年近く会社にいるが、こんなにも会社が変わるのは初めてで、私も戸惑っていると、ついに本音を吐露しました。

食堂利用料、寮費の負担が上がる

 また、従来格安で利用できた食堂や寮の利用費が上がり、これも生活を圧迫して行きました。八畳二人部屋でも我慢できたのは、寮費が安かったからであり、値上げされるのであれば、一人暮らしをした方がマシということで、寮を出る人もチラホラいました。

派遣社員の送別会が毎週開催

 製造現場から始まった派遣社員の雇止めが、ついに設計開発部門にまで及んできました。毎週金曜日には同じフロアのどこかしかで、送別会が執り行われていました。別れのあいさつでは、大の大人が号泣して言葉を詰まらせる場面に何度も出くわしました。     

 定時後は居酒屋に行って、皆でお酒を飲んで最後のお別れをするのですが、毎週の開催はさすがに負担になってきて、二~三週間に一度に、まとめて行うようになりました。

 しかしながら、送別会の参加費は自腹なので、徐々に来なくなる人も出てきました。特に家族を持っている人は自分の家族を守ることで一杯一杯だったのだと思います。特に最後の方では、数人しか出席できないことも多かったです。

自分から去っていく派遣社員

 毎週のように派遣社員が去っていくのを別の派遣社員が目の当たりにしていると、今度はいずれ、自分の番になるだろうと勘づいてきます。会社から辞めろと言われる前に、そうした事を悟って、自分から辞めて去っていく。そうした派遣社員も数多くいました。会社の為に、派遣社員の立場でありながらも協力していたのに、最後はこの仕打ち。自分から辞めるのは彼らなりのプライドだったのでしょう。

派遣社員が従来行っていた仕事もこなす

 従来、派遣社員が行っていた性能測定などの仕事も正社員がこなさなければならなくなりました。そのため、しばらく現場は混乱していました。リーマンショックが発生する前から、恒常的に仕事は多かったのに、さらに仕事は増えて、毎日残業の嵐でした。当然残業代は一銭も出ません。悲惨なのは、どこの会社もつらいので、今の会社が嫌で辞めたところで、次に行くところが見つからないことです。とりあえず、どんなに不満が有ろうと、嵐が過ぎ去るまで耐え忍ばなくてはなりません。

上司が怒りっぽくなる

 そうした中で、従来温厚であった上司も怒りっぽくなっていきました。見積もりでネジ一本余計に含めたミスをしただけで、怒鳴り散らされ、こちらも精神的に参ってきました。

事業所の閉鎖

 会社のリストラの一環で、赤字を出していた事業所を丸ごと閉鎖することになりました。そこに勤務していた社員は私が働いていた事業所に異動することになり、毎週知らない顔の正社員が入ってきました。フロアのレイアウト変更も大々的に行われ、社員の人たちが手分けしてロッカーや机を移動するなどテンヤワンヤな状況でした。

2009年新卒社員

 あれよあれよとあっという間に三か月が過ぎて、2009年の新卒社員が入社することになりました。私たちが入社した時は一か月丸々マナー研修、製品研修、工場見学などが出来たのですが、彼らは一週間だけ基本的な研修を受けた後は、田舎の工場に連行されて、本配属までの半年間ずっと製造応援をさせられていました。

 また、本配属後に支給されたノートPCは会社の倉庫から引っ張り出されてきたようなみすぼらしい中古品で、動作も非常に遅いものでした。

 とにかく、会社はありとあらゆるものを必死で削ろうと必死でした。しかし、派遣社員の自尊心や新入社員の希望まで、ズタボロに削り、会社として本当に大切な物を多く失ってしまったように思えました。

まとめ

 リーマンショックのリアルな現場からの視点をここまで書き連ねて来ました。このリーマンショックは社会人になったばかりの自分にとって、大きなインパクトがありました。会社って何だろう、働くって何だろうという事を改めて良く考えるきっかけにもなりました。

 所詮会社なんて、会社が生き残るためには、最後は何だって食い物にするんだって事が身に沁みました。最後に信じられるのは自分のスキルしかありません。英語なり電気系資格なりを取得して、いざという時に路頭に迷わないようにして下さい。

yasuyan.net

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