スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

長い春休み(東日本大震災の記憶)タイへの誘い編

次の日の出発までの一日は宿の周辺でダラダラと過ごした。宿代と食事代を併せても一日1000円ほどで済む。おまけに数百円上乗せすれば洗濯もしてもらえる。もっとここにいたい。ペナン島の居心地の良さに後ろ髪を引かれる。あくる日は昼前にバタワースを出発するので、荷物の整理を行った。ネットカフェで日本の状況を確認すると原発事故の状況はさらに悪くなっていくように感じた。アメリカの支援や韓国からのホウ酸の提供をかたくなに断り、自国内で問題を処理しようとする菅首相の姿勢に限界を感じた。枝野官房長官は相変わらず直ちに影響は無いの連呼。震災時に民主党政権であったという何たるタイミングの悪さ。この日本の命運に悲嘆するしかない。福島第一原発三号機の水素爆発ではどの程度、放射性物質汚染が拡大したのだろうか。岩手県のニュースでは、児童たちがコンクリートの建物に避難していると報じられていたが、可能であれば一刻も早く福島第一原発から半径300km以遠に避難して欲しい気持ちだ。避難所に避難している若い人たちは、別の地で一からやり直せる時間的余裕がある。故郷も大事だが、新しい土地で頑張って欲しい。

 私には一つ理解出来ないことがある。なぜ逃げることが出来るのに、逃げないのかと。日本人の土着信仰と関係があるのだろうか?一人だと心細いのだろうか?

もしかするとそれを問うことは酷なのかもしれない。逃げるにも勇気や能力が必要であり、逃げれば良いというのは強者の論理かもしれない。そもそも逃げる発想すらないのかもしれない。自分のこれまでを振り返り、逃げることにもエネルギーが必要だったことを思い出した。

また、日本人特有の同調圧力で逃げることは裏切りに繋がるのかもしれない。10年後の今だから言えるが、被災地の会社に無理してとどまらなくても、いくらでも道はあった。会社を辞めて幸せになったと断言できる。しかし、あの当時は会社という閉ざされた世界が自分の全てで、そこからはみ出ることにまだ幾ばくかの恐怖を感じていたのは確かだ。

 あくる日は10時くらいにチェックアウトを済ませ、フェリーでペナン島からバタワース駅に向かう。窓口でバンコク行きの寝台特急の券を購入。これから丸々1日半くらい列車に乗りっぱなしだ。ホームに向かうとバンコク行きの列車はたったの二~三両。日本の583系のようなボックス型の寝台車両であった。通路を挟んだ向かいにはアフロ髪の巨漢の女性が鎮座していた。体も髪もゴツく見ているだけで圧迫感を感じた。

 列車はディーゼルカーに牽引されて二~三両の短い車両で、昼前の定刻に発車した。薄曇りで、小雨が降りしきる中、熱帯雨林をかき分けながら列車はタイとの国境を目指して進む。夕方ごろに国境の駅バタン・プサールに到着した。タイとマレーシアの国境審査があり、ホームに降りる。駅舎の中で荷物チェックとパスポートコントロールを済ませた。始終ずっと曇りのち雨の愚図ついた天気。会社を捨てた退廃的な気分と解放感が複雑に交錯する気分を象徴していた天気だった。これで良いと言い聞かせたが、これで良いのかという陰鬱とした気持ちが始終頭をもたげる。寝台車に寝ころびながら、今後のことに頭を巡らす。陸路でタイに入国した場合にはビザは10日しか有効ではない。一週間ほど友人の家に身を寄せた後はどうしようか思案する。小雨が強雨になって列車に打ち付けて、その音がベッドにもこだまする。そう言えば、ペナン島で出会った番組制作会社の女の子が、ビザ更新の日帰りツアーを教えてくれたっけ。(タイのビザが切れる三日前にカンボジアに入国し、カンボジアからタイに再入国してビザを延長するツアー)

 そうだ。友人の家に一週間世話になった後はラオスカンボジアに行こう。一昨年のベトナム旅行で知り合った日本人がラオスのルアンフラバーンをイチオシしてくれていたっけ。バンコクからノンカーイ、ノンカーイからラオスの首都ビエンチャンビエンチャンからはバスか飛行機でルアンフラバーンを目指そう。

 陰鬱な気分が徐々に晴れ、未知の土地への好奇心と希望が興隆してくる。そういえばタイもラオスも自分にとっては初めて訪れる国だ。どうせなら何でも見てやろう。雨は相変わらず強いが、未知の世界を夢想しているうちに眠りに誘われていった。