真昼鈍行とは外回りの営業に疲れたサラリーマンが帰社するまでの時間稼ぎをするためにわざと鈍行に乗る行為である。
そのようなサラリーマンは日本の競争社会と雇用環境の理不尽さにほとほと疲れ果てている。そうして、やがて長期の旅に出る。その中の三分の一は社会復帰できず。旅先で沈没する。
朝が来た。
今日はニャチャンの街をゆっくり見て回ろう。
荷物を整理して二日間お世話になった宿を後にする。時間は九時くらいだっただろうか?
預けてあったパスポートを受け取り、宿泊費を払う。
ドルで払おうとしたら宿のおばさんが少しまごついたような表情を見せる。
あぁドンで払ってもらいたいのね。
二泊三日で幾らだっただろうか?
確か日本円に換算して2000円にも達していなかった筈だ。
本当に安いなぁ。
さてさてブランチをどうすっかな?
宿から目抜き通りに入り、思案にくれる。
しばらく通りを歩くと黄色の建物で一際目を引く店が。
メニューを見ると、どうやらインド料理のようだ。
中から印僑の店員が声をかけてくる。
決めた。ここに決めた。
さすが印僑だけあり英語によるコミュニケーションもスムーズ。
ラッシーとサフランライスとカレーを注文。
カレーが少々辛くてラッシーを飲んでも舌と唇がヒリヒリする。
ミルクチャイを注文し、何とかヒリヒリを薄めようとする。
チャイの香は独特だ。茶を蒸した湯気がムァーっと舞い上がる感じ。
この香がたまらない。舌と鼻で二度味わえる飲み物はチャイを除いて他にないのではないかと思ってしまう程だ。
正直、料理よりもチャイの香の方が印象に残ったインド料理屋だった。
腹一杯だ。
店の内装もサービスも申し分なく、それなりに満足出来るブランチだった。
土産物屋を冷やかすが、これといって目に留まるような物はなかった。
旅行代理店に立ち寄り、今日乗る列車の切符を受け取る。
代理店のねぇさんは相変わらず愛想がいいね。
サンキュ!
海岸線をプラプラ歩き、何枚か写真を撮影する。
まさにビーチ。
ビーチ以上でもビーチ以下でもない。
欧米人が多いな。
うーん。海岸に降り注ぐ陽光が眩しい。
教会にでも行くか。
一路、駅の近くの教会を目指す。
それにしても町並みがカラフルだ。
どの家の壁も淡い緑やピンク、クリーム、スカイブルーの色でそれがサンサンと降り注ぐ陽光に調和している。庭の濃い緑が、淡い壁を背景にくっきりと映える。このコントラストを計算して、淡い色の装飾を施したとしたら、本当にセンスあんなぁ。
綺麗だ。思わず写真を撮影してしまう。
そんな町並みに見とれていたら、いつの間にか教会に到着。
教会は駅を見下ろす小高い丘に位置していた。
西洋風の美しい教会。教会の敷地に散在する聖母マリアと南国の緑色のシダ。
それが非常に美しかった。
マリアとシダの組み合わせなんて初めてだったが、なぜかしっくりきていた。
それにしても暑い。石造りの聖堂の中に入って涼もう。
が、中に入れない。なんと12時から13時までは休憩時間という注意書きが。
仕方ない一度教会の敷地から出よう。
が、なんと門が施錠されているではないか。
出れないぞ。
教会の敷地の木陰で地球の歩き方を眺める事にする。
炎天下の中の一時間はものすごく長かった。
途中で教会の番犬に追い回される。門も聖堂も閉まっていて逃げようがない。
噛み付かれて狂犬病にかかったらたまったもんじゃない。ヒヤヒヤした。
番犬に戦いていたら、いつの間にか13時に。
石造りの聖堂の中はひんやりとしていた。前の席ではミサが開催されていた。
十字架のキリストとミサをぼんやりと眺める。
そうしているとベトナム人の女の子が俺の隣に座り話しかけてくる。
女の子
どこから来たの?
俺
日本。君は?
それから、ベトナムで回った場所などあてどない話しをする。
やはりベトナムの人は親切で、女の子はここは大気汚染がひどいから、あなたがここで待っててくれたら、マスクを買ってきてあげるなどと宣う。
いや、大丈夫だよ。
親切なのは非常に有り難いのだが、親切さのステップを何段回もすっ飛ばしている気がする。
それにドギマギさせられる。
街中の人に何処にも宿泊するところがないので、家に泊めてもらえませんか?
そして、食事をご馳走してくれませんかと頼んだら、本当にそうしてくれるのではないかと思ってしまう。
本当に日本人様々だな。
その女の子と最後にメールアドレスを交換して、教会を後にする。
そして教会のある丘を下った所で記念撮影。
最後に駅の方向も親切に教えてくれた。
ひー、若干疲れた。
駅で自分が乗る予定の列車の時間を調べるとまだ三時間ほどあるではないか。
そうかといって出歩く気にもなれず、駅の近くの本屋の上の喫茶店でのんびりすることにする。
とにかく喉が渇いた。
マンゴースムージーが体に染み渡る。
スイカのスムージーも旨い。
それでも喉の渇きが癒されない。
さっぱりしたのが飲みたくなり、ライムソーダを注文。
グラス一杯の氷に、ザク切りのライム、そして缶に入ったソーダ水と砂糖が出される。
これで好みの味に仕上げてくれってことか。
ありったけのライムを搾り、砂糖とソーダ水を注ぎ込む。
砂糖は少なめにした。ウーン、さっぱりとして旨い。
喫茶店の窓から街が一望できる。
また、空調が効いていてとても快適であった。
地球の歩き方を時々眺め、ぼーっとする。
快適すぎて、さらに出歩く気力が萎えてしまった。
そうしているとスペイン人の三人組のバックパッカーが隣のテーブルにやってきた。
何やら店員に店には英語の雑誌の他にスペイン語の雑誌がないかとしきりに尋ねていた。
あるわけねーだろ。
やがて日が暮れ始め、列車の出発時間が近付いてくる。
そろそろ駅に行くとするか。
駅ではお茶の試飲が行われていて、一杯拝借するも、苦くて軽く後悔。
しばらくすると英語のアナウンスが流れる。
間もなくサイゴン(ホーチミン)行きのゴールデンエクスプレスに乗車出来るとのことだ。
ホームでビスケットと水をたらふく買い込み、列車に乗り込む。
流石ゴールデンエクスプレスと言われるだけあって車内は清潔で、お洒落であった。
四人のコンパートメントの寝台の上段が俺の席であった。
向かいに20代のベトナム人の女性の二人組が乗り込んできた。
軽く英語で挨拶を交わす。
向こうは非常に英語が堪能であり、スムーズにコミュニケーションが取れた。
片方は金髪で服装も派手だった。もう片方は黒髪で清楚だった。
180度違うとはまさにこのことか。
実はこの二人組は姉妹だとのことだ。
金髪はカリフォルニアの大学に留学している24歳の大学生で黒髪が大学を卒業し、現在は家事手伝いをしている27歳。
金髪の妹の方が姉より何倍も逞しく見えた。
黒髪に職業を尋ねた時に、
I am looking for a job.
との返答が妙に弱々しく聞こえた。
この人は恐らくずっと職に就くことはないだろうと、思わずにはいられなかった。
姉ちゃんなんだから、もっとしっかりしろよ。
困っていたら誰かが守ってくれる。誰かが助けてくれる。
そんな甘えのような物を彼女から感じずにはいられなかった。
ベトナムではまだまだ高等教育が普及しておらず、英語をまともに話せる人だって一握り。
やはり教育を受けたからには、それを何らかの形で社会に還元しなくてはいけないのではないだろうか。
是非頑張ってほしいと思った。
社会人になり、自分の金で旅に出るようになってから旅に対して、学生の時よりも充足感を感じるようになった。
確かにゆっくりとした旅は出来なくなった。常にスケジュールを計算しながらの旅に窮屈さを感じるときもある。
でも、それでも学生の時よりも満足感を得られるようになった。
今乗っている電車も、今飲んでいる水も自分で稼いで得たものだ。
自分の力で自分の自由をつかの間ではあるが勝ち取っている。
それは学生時代には感じる事が出来ないものだった。バイトもしたが、100%旅費を賄えたわけではなかった。
寧ろかなり親に甘えた部分があった。
旅は確かに楽しかったが、どこか親に甘えている後ろめたさがあった。
旅の記憶も学生時代よりも鮮明だ。
そしてそれをこうして記録に残そうともしている。
彼女達は、MACのPC、IPODを慣れた手つきで操る。
それを見て彼女らが、一握りの富裕層であることが分かった。
ベトナムの勤労者の平均的な月収は日本円で三万円程だ。
ハイテク製品の値段は日本でも東南アジアでも変わりはない。
MACのPCを20万としたら、平均的な勤労者の月収の七ヶ月分だ。
私達はお金持ちなんかではないわ。
ただ今を楽しんでいるだけ。
そんな事を言っていた。
しかし金持ちで無い訳がなかった。
親の職業はどうやら政府の高官のようだ。
大きな貧富の差を感じない訳にはいかなかった。
日本や欧州ではグリーン車と普通車の違いはあっても、ここまで露骨に乗車する列車自体が違うなんてことは無い。
そしてなんだかんだ言いつつも、自分だってGLOBALで考えたら確実に富裕層なのであった。
自分が生まれた場所で学び、働き、結婚し、そこで一生を終える人が大多数なのだ。
こうして見知らぬ土地へ飛行機で訪れることが出来る人がどれだけいるだろうか。
彼女達とは日本の勤労環境のこと。ベトナムの大学のことなどを話した。
ニャチャンの市街から空港へ向かう途中の郊外に美しいビーチがあることも教えてもらった。
彼女達はそこでバカンスを楽しんだとのことだった。
写真を見せてもらったが確かに綺麗だった。
話に花が咲くと酔っ払ったオーストラリア人が絡んできた。
面倒臭いので寝ることにする。
コンパートメントのモニターには誰も見ない、バックスバーニーのアニメが垂れ流されていた。
寝るためにそれを消そうとするも何処にスイッチがあるか分からない。
迷っていると彼女達が、モニターの上にスイッチがあることを教えてくれた。
それを消して眠りに就く。