スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

九ヶ月の中学受験

小学校での違和感

 物心ついた頃から、世の中のニュースや技術に好奇心が強い子供だったと思います。プラネタリウムに行ったり、図鑑を読んだり、電車を眺めたりするのが好きでした。

 しかし、小学校の友達の話題はアニメやゲームばかりで、話していてもあまり面白くないと思っていました。

 自分を同じ興味を持った友達がいたら、どんなに面白いだろう。その頃は、まだ私立中学という存在も知りませんでした。

 

小6になって初めて私立中学の存在を知る

 小6から地元の進学塾に入塾しました。私が入塾したコースは公立中学に進学するコースでした。入塾したばかりの時は、授業が速く感じ、付いて行くのが精一杯でした。

 出来ない問題を復習する事を習慣にしたら、次第に授業に付いて行くことが出来ました。入塾して一か月後の四月に月例テストでは成績上位者一覧に名前が掲載されました。

 

進学コースが物足りなくなる

 次第になんとなく、公立中学進学コースが物足りないと思うようになってきました。その塾には進学コースとは別に中学受験コースというものがあり、そちらに入ってみたいと親と塾にお願いしました。

 そこで中学受験の存在を知り、レベルの高い中学に進学できれば、自分と同じように好奇心の強い人たちと友達になれるかもしれない。そう考えると胸がワクワクしてきました。

中学受験するには手遅れ

 残念なことに小6の5月では中学受験を目指すには遅すぎるということで、塾の多くの先生から反対されました。通常であれば、そこで話はお終いです。しかしながら、何故か中学受験コースに移れることになりました。

 コース変更の前に中学受験コースを担当している先生と面談をしました。

 その先生から、授業に付いて行くのは、おそらく無理だろう、帰りも遅い。それでもやってみるかと聞かれて、「はい」と答えました。

 

算数の週例テストが0点

 こうして、中学受験コースの下のクラスの算数の授業に参加することになりました。授業では比の計算や三角形の相似を取り扱っていました。正直チンプンカンプンで全く分かりませんでした。その授業内での週例テストの点数は0点でした。

 漫画ドラえもんのび太が0点を取ったのを馬鹿にしていましたが、この時ばかりはのび太に同情しました。60分の試験時間中、全く何も分からずに過ごすことがどれだけ苦痛か知ることが出来ました。

 正直、こんな難しい問題を解ける中学受験コースの友達は天才なのではと思ったほどでした。

 とんでもない所に自分は来てしまった。受験ってこんなに大変なんだと思い知りました。

授業の無い火曜日に自主的に塾に通う

 このままじゃ非常にまずい。とりあえず授業で分からなかった部分を授業の無い日に解決しようと思いました。

 授業の無い火曜日に塾に行き、手が空いている先生に分からない部分を質問して、少しずつ疑問点を解決して行きました。

 私の担任でも無い先生が親切に教えて下さり、感謝しかありません。

 

友達に小5のテキストを貰う

 私は小6の5月からの入塾で、小5の内容が完全に抜けている状態でした。それを埋めなければなりません。その為、塾の友達に小5のテキストをもらいました。一部無くしていたので、先生にお願いして、足りないテキストをいただいて、授業と同時並行で、小5のテキストを自主的に勉強しました。

 

授業が次第に分かるようになる

 このような努力の甲斐もあり、授業が分かるようになってきました。算数の週例テストでも0点は回避出来るようになりました。

 

下のクラスでトップに

 中学受験コースに入ってから一か月間、自主的に頑張ってきました。しかし、たったの一か月です。皆は小4から塾に通っています。(遅くても小5)とてもじゃないですが、まだまだ追いつけない。皆との差にため息が出るばかりです。

 ちょうどその塾の月例公開テストがありました。良く分からないながらも、頑張って取り組んだところ何と下のクラスで一番になってしまいました。

 

 

夏合宿で上のクラスに

 夏合宿では、普段の授業で上のクラスにいる友達と一緒のクラスになりました。しかし、不幸だったのは部屋割りは下のクラスの子たちと一緒だったのです。

(正式に通常授業で上のクラスに上がったわけではない)

 その為、同じ部屋の友達に無視されたり、仲間外れにされたりといったイジメを受けてしまいました。

 上のクラスの人たちの平和な環境が心底うらやましいと感じました。そして、この環境から抜け出るためには通常授業で上のクラスに登るしか道が残されていないのでした。(早く合宿が終わらないか指折り数えていました。)

 このことがきっかけで、子供心に下の階層から這い上がるには勉強を頑張らなくてはいけないと気が付くことが出来ました。(多くの人は高校生以降に気が付くのだと思います。)

 実際の社会は本当に残酷で、競争から落ちこぼれると、きつい労働しか残されていません。

 

夏休み明けのテストで上のクラスに

 夏期講習中は算数の先生にしつこく質問しました。私の質問に最後まで付き合ってもらい、感謝しかありません。

 このような夏休みの頑張りのおかげだったのか、何とか上のクラスに上がることが出来ました。

 休み明けの最初の授業で下のクラスに向かうと張り紙がされており、私は上のクラスに上がることが告知されていました。

 私が上のクラスに上がる代わりに上のクラスから落ちた人もいて、その人の名前も告知されていました。

 私は上のクラスの教室に入った後に、下のクラスに降格する人が告知を見て、上のクラスの教室から引き返して行く残念そうな後ろ姿が今でも目に焼き付いています。

 

桐朋中に行きたい

 上のクラスに上がれたこともあり、東大合格者ランキングのtop10にも入ったことがある桐朋に行きたいと思うようになりました。

 しかし国語の記述問題が独特で、非常に苦戦しました。国語は2~3年のスパンで、腰を落ち着けて準備しないと間に合わないと思いました。

 四谷大塚の合不合判定テストでも合格可能性は40%ほどで、12月の最後に何とか50%から60%のラインに乗せることが出来ました。

 

正月特訓

 正月特訓では桐朋中を目指すコースに入れてもらい、国立教室の授業に通いました。周囲は桐朋を目指す子たちばかりで非常に刺激になりました。桐朋中に合格できれば、こういう子達と一緒に勉強できるのかと思うと心が弾みました。

 

城西川越中学、桐朋中学、立教中学、成城中学を受験

城西川越中学

 直前の模試で合格可能性70%であったにも関わらず、不合格。算数の序盤で分からない問題に出くわしてパニックになってしまいました。

桐朋中学

 城西川越中学の不合格のショックを引きずりながらも、全力で頑張りました。国語の記述も何とか書けたと思います。しかしながら、頑張りも虚しく不合格でした。

 

立教中学

 桐朋中の手ごたえが微妙な中、臨みました。正直出来たのか、出来なかったのか分かりませんでした。結果は補欠でした。合格まであと数点だったということですね。桐朋中学と立教中学は丁度同じくらいの難易度であったので、あと少しの所まで来ていたのかもしれません。

 

成城中学

 ここは過去問演習でも合格最低点を一度も切ったことが無く、余裕の合格でした。面接で、今日はどのようにして学校を訪れたか聞かれましたが、正直馬鹿にされているのかと思ってしまいました。

 

塾の先生の方が小学校の先生よりも面白かった

 中学受験の勉強を通じて感じたのですが、塾の先生の授業の方が、小学校の先生の授業よりも遥かに面白かったのです。

 失礼を承知で言えば、塾の先生の方が優秀だと思いました。塾の先生のおかげで、勉強の楽しさに目覚めることが出来ました。

まとめ

 私が育った地元は中学受験が一般的ではありませんでした。中学受験をする子もほとんど周囲におらず、情報不足であったのは否めません。

 自分にもう少し知識があって、あと半年、欲を言ったら後一年早く受験勉強を開始出来ていれば、間に合っていたかもしれないと思うと非常に無念でした。

 また、夏合宿でいじめられた経験も、社会の厳しさを知る上で大変貴重なものでした。

 そして初めて試験で0点を取ったことも、出来ない子の気持ちを知ることが出来たという意味で非常に貴重な物でした。

 結果は残念な物でしたが、初めて自分の意志で人生の選択を行い、そのための努力が出来たという意味で、たった九ヶ月でしたが、中学受験は非常に貴重な経験となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目標管理シートはもう止めないか?

無意味な目標管理シート

 どの会社でも大抵、新年度に人事から配布される目標管理シート。四月に今年度の目標を記載し、上長に提出する非常に面倒なものです。

 私は正直、このような目標管理シートは会社や人事の自己満足に過ぎず、これによって会社の業績が改善するとは到底思えません。

 むしろ、目標管理シートを書いて、面談をする手間や工数が無駄で、トータルに見るとマイナスだとさえ感じます。

 

達成度の基準が曖昧

 上長と面談して達成度を確認する面談は、ある意味儀式のようで非常に形式的です。そもそも達成度を評価する基準が分かりにくいです。

 営業などであれば、売り上げという分かりやすい評価基準がありますが、設計開発ではどのように評価するというのでしょうか?

 例えば、開発リードタイムを従来の八割に抑える目標を掲げても、購買や商社の手配ミスで、部材が指定の納期の間に合わなければ、いくら設計が頑張っても水の泡です。

 また、原価を従来の八割に抑えるという目標でも、昨今の原材料の高騰で、コストエンジニアリングがあっけなく水の泡になります。

 仕事というのは複数人の連携プレーで成立するのに、そこから個人の貢献を抜き出して評価するのは、現場に張り付いていない限り、不可能です。

 

語学研修廃止でコストカット貢献??!!

 私が新卒で勤務していた会社では以下のようなことがありました。

 会社で希望者に向けて、定期的に行われている英語などの語学研修が、突如人事の一存で廃止になりました。

 社内研修を廃止すれば、会社にとってコストカットになるので、廃止を断行し、これを人事部の成果としたのでした。

 これは本当に成果と言えるのでしょうか?一時的にはコストカットのおかげで、費用は浮きますが、社員のスキルアップの機会を取り上げることは、会社全体の長期的成長から考えたら確実にマイナスです。

 私はその会社で、韓国語の研修を受けていましたが、テキストを購入し、半年ほど出席していた最中、突如の廃止。テキスト代を返金して欲しいと言いたいです。それと共に会社に対する忠誠心が急激に薄れました。

 社員の仕事に対するモチベーションを下げない為にも、語学研修は継続すべきで、研修の廃止は成果では無く、むしろマイナスでした。

難しい課題を避ける 

 皆さんお察しの通り、達成可能な簡単な目標を設定した方が、目標達成率は上がり、昇進しやすくなります。そうなれば、難しい課題には誰も取り組まなくなり、会社の成長は止まります。

 簡単な目標は、報告日の数週間前から慌てて取り組んで、それっぽい物を提出して終わりなんて日常茶飯事です。数週間で簡単に出来るものを、そもそも目標と言って良いのか非常に疑問があります。

イノベーションは本来数年単位

 メーカーを例に挙げると、日本経済を支えた画期的な発明は、数年単位で達成されたものです。単年度ごとに目標を区切ると、長いスパンでじっくり考えるイノベーションは起こりにくくなります。

 皮肉なことに、日本を支えたイノベーションは2000年代以前がほとんどで、その当時はそんな目標管理シートなんてありませんでした。目標管理シートに促されたのではなく、技術者がとにかく熱中して自発的に作り上げたものが発明として花開きました。

 

人事の自己満足

 結局目標管理シートなんて、人事の自己満足なんです。ホワイトカラーのリストラが進んでいる中で、人事がしょうもない仕事を作って、自分たちの存在意義を確保したいだけです。

 目標管理シートを管理することで、仕事をやっているアリバイ作りになりますしね。既に採用活動や研修は外部のサービスにアウトソーシングする会社が増えてきました。

 しょうもない目標管理シートのせいで、余計な仕事を増やして、会社の成長を阻害しています。

 

まとめ

 目標管理シートは百害あって一利なしです。そんなことよりも、テレワークを普及させたり、社員の自己啓発の費用補助をするなどに取り組んだ方が、百倍会社の為になりますね。そういうアイデアが出せないから、管理をしようとするのです。

 人事には現場を知る人をもっと登用して、現場に即した制度を施行してもらいたいものです。 

 

 

 

 

 

メーカー子会社に就職する際の注意点

大手メーカー子会社への就職

 大手の子会社に勤務した経験から、子会社勤務のメリットとデメリットをお伝えします。何となく、大手有名企業の社名を冠しているので、さぞかし良い会社かと思う方もいらっしゃられるかもしれませんが、実態はそうでもないです。仕事に対して意欲のある人にとっては、モチベーションが大幅に減退すること間違いなしです。

デメリット

親会社からの出向社員の存在

 そのような社員が子会社にいること自体には問題ありませんが、実態は親会社で戦力的に微妙だった人を子会社に押し付けることが多いです。申し訳ないですが、親会社の社員というだけで、実力は大したことない人が多かったですね。

 

天下り社員の多くはやる気が無い

 基本的に天下り社員は数年経過すれば、また親会社に戻るケースが多いので、子会社はそもそも腰かけという意識です。そのため、能力的に微妙な親会社の社員が、更にモチベーションを下げた状態で出向してくるので、かなりのお荷物です。

勤務中に居眠り

 やる気が無さ過ぎて、勤務中に居眠りする人も生息します。その他の時間はネットサーフィン三昧。申し訳ないですが、会社に物理的に存在しているだけで、何の役にも立ってないですね。

面倒事は子会社の社員に押し付け

 製品の市場不具合などが発生しても、出向社員は知らんぷりな人が多いです。
都合の悪いことは、全て子会社の社員の責任にします。設計や実装には親会社の社員も関わっているのに・・・。本当にヤバくなると、会社を休んで、物理的に逃走します。

中年以上の独身男性が多い

 このように仕事に対してやる気が無く、大変なことからも逃げる出向社員は45歳以上の独身者が大半です。そういう逃げ腰の姿勢だから結婚できないのか、結婚出来ずに自分の人生を諦めたから、仕事に対して消極的なのかは判然としませんが、出向社員には中年以上の独身男性が多かったです。人ととしての魅力も乏しいですね。
 そんなわけで、いざ出向社員が音頭を取って、何かを始めても子会社の人は誰も、その人の後に付いて来ません。本当にひどい時は、出向社員が転籍になっても、誰も見送らず、後片付けも手伝いません。

 親会社の社員という自覚を持ち、模範的な態度で仕事をこなしていれば、そのようなことは無かったはずですが・・・。

 仕事に対する姿勢は、めぐりめぐって自分に降りかかってきますね。


親会社の社員は好待遇

 そんな体たらくでも、出向社員の待遇は子会社の社員よりも上です。

ボーナス

 子会社が赤字で、ボーナスが無きに等しい場合でも、親会社の社員はボーナスが満額なこともザラです。正直、親会社のやる気の無い出向社員のせいで、子会社が赤字な事だってあるのに、その被害を被るのは子会社の社員だけです。

福利厚生

 給与だけでなく、加入している社会保険、厚生年金などの全てが違う場合もあります。ここは子会社に就職する際に最も気を付けるべきポイントです。一応社名が~テクノサービスという~という名前が大手でも、会社の健康保険では無く、全く別の健康保険の場合もあります。(医療機関での自己負担率が違う)
 このように大手の名前を冠しているだけで、福利厚生はそこらへんの中小企業と何ら変わらないこともあります。(元来大手の協力会社が、囲い込みで買収された時など)

 むしろ、出向社員が好き放題やって、責任を取らないせいで、子会社の社員が被害を被ることを考えると、独立系の地場の中小企業に就職した方がマシな場合もあります。

不公正な設計レビュー

 同じ設計レビューでも親会社と子会社の社員では、反応が全く違います。子会社の社員がいくら正しいことを主張しても、技術的根拠の無い出向社員の感覚論が採用される場合も多いです。往々にして、出向社員の甘い設計が市場で不具合を引き起こし、その後始末を子会社の社員が対応します。

労働組合が無きに等しい

 労働組合は基本的に有って無いようなものだと思った方が良いかもしれません。福利厚生の既定の変更があっても、子会社の社員は半強制的にそれにサインさせられます。

メリット(!!??)

親会社の試験設備を使用できる

 振動試験機器、低温試験機などの高額な試験機器を利用できます。これは大手の
グループ会社ならではのメリットかもしれません。しかし、最近は受託で環境試験や耐久試験を行ってくれる会社も増えたので、そこまでメリットは無いかもしれません。

知名度がある

 大手のグループ会社なので、知名度はあります。よって、就職したときの家族受けは良いかもしれません。しかし、実際に働くのは自分なので、家族受けが良くても勤務している本人が不幸ならば、あんまり意味ないかもしれないですね。

親会社との連結決算による財務的安定性

 これによって、財務的には安定で、赤字が続いても簡単に倒産はしません。
しかし、経営不振が表面化しないせいで、無能な役員がいつまでも居座り、自浄作用が働きません。よって徐々に会社の空気が淀んで来ます。

休日日数は親会社と同じ

 休日が親会社に準じていないと出向社員から、文句が出ます。よって、休暇は親会社と同じです。正月休みやお盆休みは一週間丸々あります。


就職のハードルは低い

 一般的には親会社よりも入りやすいです。(FANUCなどは例外)


まとめ

 キャリア形成の観点では基本的に子会社への就職は推奨しません。どんなに頑張っても役職は出向社員が独占します。一生、出向社員の奴隷的立場に甘んじます。特に主体性を持って仕事をしたい人は避けた方が無難です。新卒社員も敢えて子会社を選ぶメリットは無いと思います。

 

例外的にお勧めできる人

 趣味が生きがいで、仕事に対してやりがいも求めていない、仕事に対してのプライドも無い人が、大手と同じ休暇制度を求めて就職するなどはアリだと思います。そして長期休暇は趣味に没頭。

また、実家が太くて、働く必要はないのだけど、念のためサラリーマンの肩書は有していたい人も良いでしょう。大手のグループ会社に勤務していれば、お金も借りやすいですし。

 あとは会社名だけが生きがいで、有名どころの会社名ならば、仕事内容はどうでも良い人とかですかね。
→ぶっちゃけ仕事に対して全般的に消極的な人

 

 

 

 

 

 

ホテル リマーニ

ホテル リマーニ

 岡山県牛窓にある、エーゲ海リゾートを模したおしゃれなホテルです。非常に人気で土日祝日は中々予約が取れません。私達も、宿泊三日目に楽天トラベルで日曜と月曜(祝日)の予約を試みましたが、満室でした。ダメもとでホテルへ電話をかけてみると、角部屋ならば用意できるの事でした。というわけで、運よく宿泊することが出来ました。

 岡山県の瀬戸内地方はカラッとした乾燥性の気候で、地中海性気候に非常によく似た気候です。近所にはオリーブ園などがあります。

アクセス | ホテルリマーニ

おしゃれな内観

 玄関からホテルに入ると、白を基調とした、吹き抜けが印象的なロビーがあります。曲線美が印象的でした。

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ロビーの窓越しには浅瀬のプールが見えます。夏には子供を連れて遊ぶことも出来ます。

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冷涼感あふれる客室

 白と青を基調としたスタイリッシュなベッドが、お出迎え。f:id:yasuyankun:20220410092414j:image

 ベランダの前には瀬戸内海が、広がっています。前島、小豆島が鎮座しています。春や秋にはベランダの椅子で、風に吹かれて読書なんて乙ですね。

 お風呂、洗面所、トイレが完全に分かれており、支度をするにも十分な広さです。

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WIFI

 youtubeを見ても、全くストレスを感じません。ワーケーションで仕事用に使うにも十分な電波強度です。

 

部屋の飲み物

 ミネラルウォーター500mリットルが一日当たり、二本付いてきます。カプセル式のコーヒーメーカーがあり、おいしいコーヒー、紅茶、緑茶を堪能できます。

 

朝食

 スブラキ(ギリシャケバブ)、煮魚のトマトソース和え、ステーキ、パンケーキなどから選択できます。パンは定期的に巡回するウエイターが、クロワッサン、フランスパンを給仕してくれます。オリーブ油をパンの切れ間にしみこませるとおいしさが倍増します。

 ジュースはオレンジジュース、コーヒー、スパークリングワイン、野菜ジュースなどからお代わり自由で飲むことが出来ます。

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買い物

 歩いて五分以内の場所にファミリーマートがあります。昼食はホテル内のレストランで済ますことも出来ます。

まとめ

 一泊、大人一人当たり、1万五千円~2万5千円と若干お高いですが、それに見合うクオリティだと思います。ホテルの地中海料理も非常に特徴的で美味なので、素泊まりでなく食事を付けることをお勧めします。(朝食だけでも十分)客層も全般的に富裕層で、マナーも良いです。

 近くにコンビニもあり、WIFIの電波も良好なので、お金に余裕のある人がワーケーションとして利用するのもアリだと思います。

 

 

 

 

 

転職を決断する時(4社目)

 

 

在籍期間 3年3か月

 前職で研究開発部長と微妙な関係になった後、転職活動を開始し、二社から内定を貰い、そのうちの一社に入社することになりました。表面的な雇用条件は悪くなかったのですが、大手の子会社という事で、それが後に、様々な問題となって立ちはだかることなど知る由もありませんでした。

業務内容

 無線機器の構造設計及び強度設計の担当になりました。具体的には機器が落下したときに破損を防ぐためにはどのような部材を選定すれば良いのか、そしてその部材の厚みはいくらにすれば良いのか。また、機器の中のCPUは使用中に温度が上昇するので、その熱を外に逃がす必要があります。(CPUの温度が上昇すると計算速度の低下などが生じます。)その為にどの程度の熱排出をしなければいけないのか、最低限必要とされる機器の容積はいくらか、なども計算します。

 このような機器を安定的に稼働させるための計算を行い、その結果を意匠設計者(実際のモデリングなどを行う)へ引き渡して、機能を満たす筐体を設計してもらいます。

製品の市場不具合が激減

 従来、経験論で設計してきたものを、数値的な構造式で再定義し直すことで、技術基準をドンドン明確化していきました。経験論で見逃していた部分も統計的手法で洗い出し、市場での製品不具合を未然に食い止めることが出来るようになりました。

 やがて、従来製品不具合のクレームの防波堤になっていた、営業技術や修理サポートのメンバーからも信頼して貰えるようになりました。表立ってではないですが、古参の社員や出向社員よりも俺達はお前を信頼しているとまで言って貰えました。

 設計レビューでも出向社員を論破してしまうことも多々あり、構造設計については、その会社で私が第一人者になってしまいました。

使えない出向社員Tさん

 他部署の人達や技術部長から信頼されるようになったのは嬉しかったのですが、使えない出向社員Tさん(品質保証部)を通り越して、私へ直に相談が行くようになりました。正直、次第に私のキャパを超える要望も多くなってきて、疲弊してきました。

 製品の在庫を環境の悪い場所で長期保管したことで、無線機のチップが故障し、出荷前の品質検査でNGになる問題が発生しました。このまま出荷できなければ数億円の損失です。正直言うと、製品の在庫を適切に管理するのは品質保証部の責任だったのですが、その品質保証部が使えない出向社員とド素人の品質保証部長だったので、何も対処していませんでした。

 そこで、私に事態の火消しのお鉢が回ってきてしまいました。私は、製品不具合を起こしているチップを外部の検査会社に委託し、X線、スライス診断などを行ってもらいました。納得出来なかったのは、私にそれだけの責任をオッ被せておきながら、外部に委託する際の費用について、中々決済が下りなかった事です。

 しかしながら、私は最悪自腹で検査費用を払う覚悟で、検査会社に依頼しました。その結果、チップ内部のアルミ基板が湿気によって腐食し、腐食した部分に突入電流が流れた時に、焼損したことが判明しました。

 私が、必死に不具合の火消しをしているにも関わらず、品質保証部員Tさんは涼しい風でネットサーフィン。定時前の不具合対策会議には、用事があるからとバックレれていました。その人たちは親会社からの出向社員で、私よりも遥かに待遇が良いはずなのに、全く責任感が無く、私の心は次第にすり減っていきました。

yasuyan.net

ド素人品質保証部長Sさん

 Sさんは、もともと親会社からの出向社員で、営業課長だったのですが、その人を部長に昇格させようとした時に、営業部長のポストが無い(既に別の人が営業部長)という理由で、ポストが空いた品質保証部長(前任者が定年のタイミング)に就任しました。営業畑の経験しかなく、技術は全く分からないのに、製品の品質に対する責任を一手に担う品質保証部長に!!!

 正直、JTC(日本の伝統企業)は遊びで経営やっているのかなと、いぶかるようになって来ました。そいつのメンツを守ってやるために、部長に昇格させて、ド素人の品質保証部長が誕生しました。子会社で真面目に働いている技術者にとっては、迷惑この上ありません。

 使えない出向社員Tさんとド素人品質保証部長Sさんのせいで、今まで製品の品質は滅茶苦茶でした。

 

意匠設計者からの嫉妬

 私が製品設計基準を確立し、他部署からの信頼を強固にするにつれ、私と一緒に業務を行っていた意匠設計者が私に嫉妬するようになりました。その意匠設計者は同じ中途採用だったのですが、その人が経験論で設計してきたものを私が数値的に適切か分析したことで、その人が採用したモデルに無駄があったことが明らかになってしまったのでした。

 次第に私が計算から導出した設計基準や私が選定した部材を守らずに、自分勝手に設計するようになりました。品質保証部が機能していなくても、市場での製品不具合が防げていたのは、私が厳格に設計基準を設定し、その通りに設計してきたからです。それを逸脱した設計をすれば、市場で製品不具合が発生するのは火を見るよりも明らかです。

製品不具合勃発

 意匠設計者が滅茶苦茶に設計したものは品質保証部で、見事なまでにスルーされて、市場にリリースされてしまいました。その設計は、加熱したCPUの熱を十分に放熱出来ない、配線が複雑に絡まりすぎて、電磁ノイズが多発する、中国で生産委託した回路基板が滅茶苦茶(部品が正しい位置に実装されていない、実装された部品が壊れている)などと言った、問題を孕んでいました。

 案の定、製品の納入先の多方面から、無線が安定的に稼働しないなどのクレームが来ました。

また火消し役に

 あろうことか、再度私が火消し役に駆り出されました。正直、もうウンザリな気持ちになりました。しかも出向社員の分まで頑張っているのに、給与が低い。私が提示した設計基準を守らなかった意匠設計者は、ヘラヘラしていて、その態度にも非常に腹が立ちました。私よりも四歳も年上なのに、よくそんな無責任なことができるなと心底呆れもしました。

所詮子会社

 色々悩みましたが、私が勤務していた会社は、所詮大手の子会社だったのです。どんなに頑張ろうと親会社からの出向社員の不手際を片付ける。それが宿命なのです。そして、手柄は親会社からの出向社員のものです。

 さらに同じ空間で仕事をしていても親会社の社員には親会社の給与と手厚い福利厚生が提供されます。その反面で子会社は言わずもがな。出向社員の勤務態度が模範的で、実力もあるならば納得できますが・・・。いくら私が正しい技術論を積み上げても、出向社員の観念論が勝ることも多く、子会社の社員という立場に限界を感じるようになりました。出向社員は無意識のうちに子会社のプロパー社員を一段下に見ており、これを覆すのは尋常ではありません。

 そうしたキャリアを受け入れて、自分を胡麻化しながら仕事を続けるのか、一年位悩みました。そもそも本当は親会社に転職を希望していたのですが、転職エージェントから現在募集していないので、代わりに子会社である当時の勤務先を推奨されたのでした。

 しかし、子会社の社員という立場への限界。こうした見えない身分制度の下、親会社の出向社員の下僕となることに、釈然としない気持ちでした。子会社に入社したことを非常に後悔しました。

ソフト技術者Kさんが上司に

 そうして悩んでいた折に出向社員のソフト技術者が課長に昇格しました。しかし、ソフト課の課長のポストが埋まっていたので、私の課(メカ設計)の課長になってしまいました。(メカ設計の課長は出向社員で、親会社に戻った)

 分野を考慮せずに、人数合わせでポストを適当にはめ込むお得意の人事です。当然Kさんは、メカ設計について全く分かりません。私の報告書を読んでも、句読点や文体などの指摘しか出来ず、肝心の技術報告の内容を理解せず、指示ミスを連発していました。

転職を決意

 ソフト技術者Kさんが、課長に君臨したことが決定打になり、転職を決意しました。ここでいくら頑張っても昇格できず、親会社の人数合わせの人事に翻弄されるのかと思うと暗い未来しか見えませんでした。

 また、中途社員同士で団結することも無く、むしろ中途社員同士で足を引っ張り合い、数少ないポストを奪い合う事にもゲンナリしました。技術の追求よりも政治力優先。ここにいつまでもいても、自分の成長に繋がらない。長くて短い三年三か月の子会社勤務はこうして幕を閉じたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

転職を決断する時(3社目)

二社目を四か月で退職

 二社目の会社を辞めたので、会社の寮を出ることになりました。しかし、このままでは路頭に迷ってしまいます。

 実は二社目の会社に内定が決まった時に、内定をくれた別の会社がありました。急いで、内定をくれたもう一社の社長に電話をかけて、そこで働かせてくれないかと懇願しました。

 電話をした次の日に再度面接に呼ばれて、年明けからその会社で働かせて貰うことになりました。一度内定を辞退したにも関わらず、私を雇用してくれた社長には感謝しかありません。

 その会社は、消毒、消臭効果が高く、環境負荷の低い除菌水の生成装置の製造と販売を行っている会社でした。主なターゲットは病院、動物実験施設、介護施設、調理施設などでした。

在籍期間 一年三か月

 会社自体の居心地は悪くありませんでしたが、結果的に一年三か月で退職することになりました。その会社とは退職後10年経過した今でも仕事上の関係があり、そうした意味では長いご縁の会社です。

研究開発部に配属

 私はそこで、研究開発部の所属となりました。その部署では医療、介護、動物実験施設用の除菌水の効果を分析したり、除菌水生成装置を開発していたりしています。

当初は全く役に立てない

 研究開発部に配属されましたが、前職は電子部品の設計をしていたため、全く役に立てませんでした。このままだと、完全に殻潰しです。その為、まずは他部署で人手が足りない時に積極的にサポートに回りました。具体的にはお客様のサイトで、除菌水によって浄化された後の汚水を排出して、装置を清掃する作業や除菌水を噴霧する装置の部品の交換作業などのメンテ作業を手伝いしました。

自分が出来ることで会社に貢献できる事を模索する

 人手不足の部署の穴埋めの他にも自分が得意で、会社では出来ることは無いかを積極的に見つけました。具体的には会社の定例会議では議事録を書く人が居なかったので、私がそれを行うようになりました。漠然と議事録を書くのでは無く、議論の内容から会社の問題点をあぶり出せるように心がけました。

会社の問題点が見えてきた

 そうしていると会社の問題点が徐々に浮かび上がってきました。その会社は主に除菌水の生成装置、それの据え付け作業(配管工事、噴霧器設置作業)、定期メンテナンスに収益の柱にしてきました。

 しかしながら、こうした案件は一件当たりの案件金額は大きいですが、受注に波があります。このことが背景で、会社の収益も中々安定しませんでした。

 そこで、会社がサイドビジネスとして行っていた、除菌水を小分けにして一般販売している事業を強化する方法を考案しました。従来は小規模の病院や介護施設が、主なターゲットでしたが、ペットショップや動物病院並びにペットを飼っている家庭を更なるターゲットとしました。

 小分けした除菌水を直接に様々な用途先に家庭から法人まで幅広く販売し、そのボリュームを厚くすることで、リスクを分散しつつ収益フローを強化できる見込みが立ちました。

上層部の反対

 そうは言っても、私はまだ入社して数ヶ月、営業部長も、研究開発部長も聞く耳を持ってくれませんでした。しかし、何故か社長だけは私を応援してくれました。

 私は会社の地元の市を中心にインターネットで潜在顧客を洗い出し、そこに向けてテストマーケティングを行いました。特にペット関連は、会社が取り組んでおらず、またターゲットとして有望だったので、そこに向けて、サンプル品を持ち込んで、使用してもらうことにしました。

 除菌水をスプレーに詰めて、カタログを一緒に動物病院やペットショップに配って回りました。社有車は使用出来ず、全て自転車で一軒一軒回りました。自転車で行けない場所は電話でアポを取り、そこにサンプル品を送る地道な作業を繰り返しました。

予想通り好評

 テストマーケティングは予想通り好評で、大型ボトルを定期購入したいと申し出るペットショップも現れました。ペットの独特のにおいを消臭する除菌水は従来もありましたが、ペットの目や鼻などの粘膜に触れると炎症の恐れがあるなどの問題点がありました。その会社の除菌水は粘膜に触れても問題無いので、安心して使用できます。その点が非常に好評でした。

 また、ペットは少子高齢化の進行によって、飼育数が年々増えていて、これからの需要が多く見込める分野でした。(独居老人が飼育する需要が伸びている)

オリジナル商品の開発

 テストマーケティングの結果を受けて、ペット向けのオリジナル商品の開発部着手しました。会社から商品名を募り、パッケージやポップ資料は女性社員に頼みました。大型ボトルの定期購入に乗り出してくれたお店が、実際にオリジナル商品を店頭に置いてくれることになりました。

 自分が先頭に立って、会社の新事業を創出することが出来て、非常に満足することが出来ました。

研究開発部長との衝突

 こうして会社の新事業を打ち立てることに成功したわけですが、生成装置を開発した研究開発部長はそれを良く思っていませんでした。うちは生成装置を開発している会社なのだから、生成装置をメインに売るべきだと反発されました。

 社長が間に入って取り持ってくれましたが、ぎすぎすした空気は中々改善されず、徐々に居心地に悪さを感じるようになりました。

上らない待遇

 日本の昔ながらの風習が根強い中小企業だったので、年功序列であり、結果を出しても待遇が上がる訳ではありませんでした。給与は上がらなくても、裁量権を与えてくれて、自由にテストマーケティングをさせてくれるなどであれば、良かったのですが、自転車で拡販活動するにも限界が見えて来ました。(出来れば電車を使用して遠方まで行きたい)

転職を決断

 そこのまま会社にいても研究開発部長との衝突は避けられない事、新事業の土台をある程度構築して、会社に一定の貢献が出来た事、裁量権が広がりそうになかった事、(欲を言えばもう少し給料を上げて欲しかった)そうした事から転職を決断しました。

 その会社は土曜日は社内会議と勉強会という名目で出社だったのですが、せめて土曜出社が半日だったら、アルバイトを並行してやることで、会社を辞めずに済んだかもしれないと思うと無念でした。そもそも二社目を緊急退職した私を快く受け入れてくれたことに本当に感謝しかありませんし、それ以上の物を望むのはお門違いかもしれません。

会社に感謝しかない

 様々な要因で会社を去ることになりましたが、この会社には感謝しかありません。給与は低かったですが、私に自由に企画させてくれて、非常に充実した日々を送ることが出来ました。

 本当に大事なのは、会社の知名度や規模では無く、一緒に働く人だったり、自分らしくあれるかなのだということを体感出来て、非常に良い経験でした。

 どんな状況でも自分なりの努力と工夫で会社に貢献できる自信が付いたのは、この会社のおかげでした。

 また、当時70才を超えているにも関わらず、装置の据え付け現場に自ら赴く姿勢には尊敬の念を抱きました。通常の大手企業の社長ならば、現場に興味が無くふんぞり返っている人も多いことでしょう。

 そうした意味でも、辞めるのが惜しい会社でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕たちのリーマンショック

 

 

リーマンショック

 リーマンショックが起きた当時、私は東証一部上場のメーカーの設計開発部に在籍していました。金融界で未だに語り継がれているリーマンショックですが、日本のモノづくりの現場にも大きな影響を与えました。

 まだ私は20代の若手でしたが、その立場から見た惨状を書き残しておきたいと思います。

 

2008年9月に勃発

 私が勤務していたメーカーは自動車、家電業界と深い付き合いがありました。しかしながら、リーマンショックが起きた2008年の年末までは、さしたる大きな変化は無かったように思いました。

 

2009年の年明けから影響が顕在化

 2008年の年末まで、影響が顕在化しなかったのは、四半期のオーダーが2008年の9月(リーマンショック発生時)に既にかかっており、キャンセルが出来なかったからだと思います。2009年の年が明けてから、徐々に影響が顕在化してきました。

金曜日に工場の生産ラインがストップする

 年明けから毎週金曜日に生産ラインがストップするようになりました。そして、生産ラインに携わっていた派遣社員が次々と雇止めにあって、会社を去って行きました。

2008年入社の新入社員が製造応援に駆り出される

 2008年4月に入社した新入社員は半年の研修を経て、10月に職場配属となりました。しかし、まだ戦力にはなりません。派遣社員が雇止めになって、空いた穴は新入社員で埋め合わせるせることになりました。配属された事業所以外の所(数100km離れている)にも必要とあらば、バスに突っ込まれて、生産応援に駆り出されていました。

 寮の隣部屋に住んでいた新入社員はドラムバックに身支度を突っ込まされ、別の事業所に連行されて、そのまま数ヶ月帰って来ませんでした。

部長からの緊急呼び出し

 当時、私は会社の労務委員会(労働組合もどき)の職場連絡員でした。2009年の年明け直後に部長から呼び出しを受けました。そこには別の課の職場連絡員と部課長が集合していました。

 そこで部長から、正社員の給与カット(従業員の同意が無いので本当は違法)、既婚者への住宅補助の廃止などが、一方的に通達されました。職場連絡員は抗弁する隙もありませんでした。既に決まったことだから、後日それぞれの課へ情報展開するように言われました。

職場へ情報展開

 私は辛い気持ちで一杯でしたが、部長から通達された事を職場に展開しました。特に結婚したばかりの社員に、住宅補助が廃止になったことを伝えるのは非常につらいものでした。もちろん、反論する社員もいましたが、同席していた部長から一蹴されて成す術もない状況でした。サービス残業も多い中、住宅手当だけが唯一の救いでしたが、それが廃止になると家計への負担が重くなります。さらに基本給のカットもあります。皆、一様にうなだれていました。

 最後に部長が、私は三十年近く会社にいるが、こんなにも会社が変わるのは初めてで、私も戸惑っていると、ついに本音を吐露しました。

食堂利用料、寮費の負担が上がる

 また、従来格安で利用できた食堂や寮の利用費が上がり、これも生活を圧迫して行きました。八畳二人部屋でも我慢できたのは、寮費が安かったからであり、値上げされるのであれば、一人暮らしをした方がマシということで、寮を出る人もチラホラいました。

派遣社員の送別会が毎週開催

 製造現場から始まった派遣社員の雇止めが、ついに設計開発部門にまで及んできました。毎週金曜日には同じフロアのどこかしかで、送別会が執り行われていました。別れのあいさつでは、大の大人が号泣して言葉を詰まらせる場面に何度も出くわしました。     

 定時後は居酒屋に行って、皆でお酒を飲んで最後のお別れをするのですが、毎週の開催はさすがに負担になってきて、二~三週間に一度に、まとめて行うようになりました。

 しかしながら、送別会の参加費は自腹なので、徐々に来なくなる人も出てきました。特に家族を持っている人は自分の家族を守ることで一杯一杯だったのだと思います。特に最後の方では、数人しか出席できないことも多かったです。

自分から去っていく派遣社員

 毎週のように派遣社員が去っていくのを別の派遣社員が目の当たりにしていると、今度はいずれ、自分の番になるだろうと勘づいてきます。会社から辞めろと言われる前に、そうした事を悟って、自分から辞めて去っていく。そうした派遣社員も数多くいました。会社の為に、派遣社員の立場でありながらも協力していたのに、最後はこの仕打ち。自分から辞めるのは彼らなりのプライドだったのでしょう。

派遣社員が従来行っていた仕事もこなす

 従来、派遣社員が行っていた性能測定などの仕事も正社員がこなさなければならなくなりました。そのため、しばらく現場は混乱していました。リーマンショックが発生する前から、恒常的に仕事は多かったのに、さらに仕事は増えて、毎日残業の嵐でした。当然残業代は一銭も出ません。悲惨なのは、どこの会社もつらいので、今の会社が嫌で辞めたところで、次に行くところが見つからないことです。とりあえず、どんなに不満が有ろうと、嵐が過ぎ去るまで耐え忍ばなくてはなりません。

上司が怒りっぽくなる

 そうした中で、従来温厚であった上司も怒りっぽくなっていきました。見積もりでネジ一本余計に含めたミスをしただけで、怒鳴り散らされ、こちらも精神的に参ってきました。

事業所の閉鎖

 会社のリストラの一環で、赤字を出していた事業所を丸ごと閉鎖することになりました。そこに勤務していた社員は私が働いていた事業所に異動することになり、毎週知らない顔の正社員が入ってきました。フロアのレイアウト変更も大々的に行われ、社員の人たちが手分けしてロッカーや机を移動するなどテンヤワンヤな状況でした。

2009年新卒社員

 あれよあれよとあっという間に三か月が過ぎて、2009年の新卒社員が入社することになりました。私たちが入社した時は一か月丸々マナー研修、製品研修、工場見学などが出来たのですが、彼らは一週間だけ基本的な研修を受けた後は、田舎の工場に連行されて、本配属までの半年間ずっと製造応援をさせられていました。

 また、本配属後に支給されたノートPCは会社の倉庫から引っ張り出されてきたようなみすぼらしい中古品で、動作も非常に遅いものでした。

 とにかく、会社はありとあらゆるものを必死で削ろうと必死でした。しかし、派遣社員の自尊心や新入社員の希望まで、ズタボロに削り、会社として本当に大切な物を多く失ってしまったように思えました。

まとめ

 リーマンショックのリアルな現場からの視点をここまで書き連ねて来ました。このリーマンショックは社会人になったばかりの自分にとって、大きなインパクトがありました。会社って何だろう、働くって何だろうという事を改めて良く考えるきっかけにもなりました。

 所詮会社なんて、会社が生き残るためには、最後は何だって食い物にするんだって事が身に沁みました。最後に信じられるのは自分のスキルしかありません。英語なり電気系資格なりを取得して、いざという時に路頭に迷わないようにして下さい。

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