スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

長い春休み(東日本大震災の記憶)宮城脱出編

夜が明けた。脱出決行の時が来た。外は晴れ。防寒具を着込み、、マウンテンバイクに跨る。とりあえず47号線に出て、その道でとにかく西に行こう。途中で国道四号線を渡る。四号線では大渋滞。ガソリンスタンドを目指して、そこがボトルネックになっているようだった。とにかく夢中で自転車をこぐ。奥羽山脈から東へ吹き下がるヤマセが体をつんざく、ヤマセが向かい風となり、思うように自転車が進まない。今日中に山形県に辿り着けるだろうか?信号待ちしているワンボックスカーの運転手に途中まで乗せてもらえないか声をかける。マウンテンバイクを車の後部に積みこむ。後部には赤ちゃん連れなども混じっていた。西大崎付近まで乗せてもらい。そこからまた自転車で西の山形県を目指す。地震の影響で県境の鳴子峡の橋が崩落していないか心配で、通りがかりの人に鳴子大橋の状態を訪ねる。どうやら大丈夫の様だ。川渡温泉付近まで来たところで、片側通行で車が数台停留していた。後部に荷台を有する大型車のドアガラスを必死で叩く。山形県まで乗せてもらえないか頼むと快諾してくれた。運転手のお兄さんが、マウンテンバイクを荷台に載せるのを手伝ってくれた。運転席にはお兄さんの奥さんも同乗していた。普段はお兄さんと奥さんで宮城県の植木屋さんを切り盛りしているとのこと。食料買い出しの為に山形県に向かう途中だそうだ。片側通行地点を過ぎてから、車はスムーズに進んで行く。鳴子峡も無事に通過し、山形県へ。理髪店の前を車が通りすぎると、サインボールがクルクルと元気に回っていた。携帯電話の電波もつながった。親、友達などから自分の安否を心配する溜まっていたメールが、ドバドバ携帯に届く。着信アラームがブーブー鳴り響く。まずは親に安否報告。次にANAに勤務しているCAの友人に山形空港庄内空港発の飛行機の空き状況をメールで確認。全て満席とのことだ。とりあえずお兄さんに庄内空港に行ってもらうように頼む。本当は山形県内の適当なところで降ろして貰い、自転車で向かうつもりだったが、お兄さんの取り計らいで空港まで乗せてもらうことに。空港到着間近にイオインモールが見える。「俺たちはここで買い物して帰ります。」とお兄さん。空港まで乗せてもらった精神的な重荷を取り除いてくれた気遣いが嬉しかった。

駐車場に車が進入し、マウンテンバイクを一緒に降ろし、感謝とお別れの言葉を伝えた。お礼に私が持っているありったけのお菓子を渡そうとしたが、これから大変でしょうから持って行って下さいと逆に向こうが持っているお菓子を渡されて、躊躇していると来ているジャージのポケットや胸の中にオレオやうまい棒を突っ込まれて、シュールなギャグの様相を示していた。自転車を引いてANAの受付カウンターに向かう。自転車を飛行機に積んで、羽田空港に向かいたい旨を伝えた。本日中のチケットは既に満席で、キャンセル待ちとのこと。それでも良いということで、チケットを購入した。自転車を飛行機に積むには分解が必要とのことで、カウンターのお姉さんが手を真っ黒にしながら、分解を手伝ってくれた。こちらが宮城県から避難している事情を理解して助けてもらったことが嬉しかった。

とりあえず出発ロビーでキャンセル待ちすることに。確か、私の前に30人ほど居て、私の待機番号は30いくつだったはずだ。2時間後、羽田行の飛行機の出発案内が始まる。そのついでにキャンセル待機番号が読み上げられる。おそらく無理だろうと半ば諦めていた。しかし、予約だけして空港に辿り着けない人たちが多発していたようで、なんと自分のキャンセル待機番号が読み上げられることに。

いそいそと飛行機に乗り込む。離陸準備に入った時に、宮城県にいる仲間の事に思いを馳せる。離陸後日本海を旋回し、一路南東の羽田空港を目指す。途中群馬県上空で飛行機がガタンと揺れて非常に焦った。必死の思いで脱出したのにまさか墜落かと肝を冷やした。

 それにしても震災で地方空港の意義が見直されたかもしれない。鉄道や高速道路が寸断されたとしても滑走路さえ生き残っていれば、災害救助派遣や被災者の避難が出来る。災害大国日本では赤字でも国策として地方空港は残さねばならないと思った。飛行機は無事に羽田空港に到着。飛行場内の空気には只ならぬものが漂っていた。手荷物回収レーンで、分解した自転車を回収。その足で地元行の高速バス乗り場に向かう。バスの下のキャビンに自転車を載せてくれとお願いしたが、バスの運転手は無理の一点張り。普段の私ならば引き下がるが、ここでの私は半ば半ギレで宮城から命からがら避難し、関東の実家に戻り親に絶対会わなくてはいけないことを伝え、しぶしぶ自転車の搭載を認めてもらった。

地元のバス停の近づいたときに、バスのモニターのニューステロップで、アメリカ海軍の空母ロナルドレーガン宮城県の沖合に向かっているとのことだ。空母が出動だと?!

これは歴史に残る惨禍に違いない。バス停まで親に迎えに来てもらい、自分の無事を祝い、ここまでの避難の苦労を労ってもらった。祖母も私を心配してくれているとのことで、祖母の家に向かい祖母宅で生協の寿司とカキフライをつまむ。そしてシャワーを浴びる。三日ぶりの温水シャワーで生き返った心地がした。関東でも余震が多く、祖母も母親も余震の度に恐怖の色をにじませる。

 実家に戻り、情報収集に勤しむ。どうやら福島原発では大変なことが起こっているようだ。敷地近くの放射線量は上がったり下がったり不安定な状況。高い放射線量の次には必ず、低い放射線量を作為的に伝えている印象を受けた。NHKの特番には東大の原子力工学の教授が招かれていたが、解説が的を得ていないようだ。キャスターに今後の安全を問われると押し黙ったまま。専門家でも未知の領域に突入していることをその時に悟った。関東も危険なのか?!只ならぬ不安が襲う。原発の運転が出来ず、明日の電車は間引き運転するとのこと。ただし東海道新幹線だけは運行するようだ。自宅のPCで掲示板を作成し、宮城県に残る友人達に自由に情報交換の場として使用してもらうように掲示板のアドレスを配信した。

精神的にも肉体的にも疲れ果て、眠りにつく。人生の五年分をたったこの三日間で経験したようだった。