スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

ワーケーションや在宅勤務の普及の先に何があるのか?

 

 

従来の会社に通う働き方

 会社に出社していたときは、成果が有ろうが、無かろうが、9時から18時までの就業時間に会社にいさえすれば、何となく毎月給与が貰えていた。出社している以上、一定の煩わしさはあったが、成果が出せなくても頑張ってますアピールで大目に見てもらえる利点もあった。明日に回しても間に合いそうな仕事を残業でこなせば、残業代が貰える優しさもあった。

 会議で何も発言しなくても、その場にいるだけで何か仕事をやってます感を醸し出すことも出来た。

 

ワーケーション(在宅勤務も含める)

 会社に行く煩わしさから解放されて、会社へ通勤するときと比較して、物理的自由度は圧倒的に向上する。好きな時間にコーヒーを飲みに行っても、散歩に行っても、風呂に入っても誰にも咎められない。人間関係の煩わしさにも悩まされない。

 その一方で、成果が強く要求される。ワーケーション先や家には上司はおらず、頑張ってますアピールは完全に無意味である。また、分からないことがあっても気軽に質問出来ないので、個人の力での状況を打開する能力が要求される。

 とにかく成果が全てなので、精神的なプレッシャーは会社にいる時よりも増す。自分が目標とする成果が出なければ、18時以降も仕事を継続してしまうこともザラである。

残業代という概念も薄れてくる。オンライン会議で何も発言しなければ、空気と一緒の扱いになる。

 

私の所感

 私は組織に対する帰属意識が元来薄く、日本的なメンバーシップ雇用に違和感を感じていた。よって、ワーケーションや在宅勤務が普及し、成果さえ出していれば文句を言われない風潮になったことは大歓迎である。

 もちろん成果を出さなくては、認めてもらえない厳しさはあるが、私にとってはそれが良い意味で自己研鑽を継続するための緊張感になっている。

 2000年代に突入してから、成果主義が唱えられてきたが、評価の中に上司へのゴマすりが、無意識の内に介在し、個人的に不透明感を拭えなかった。

 そもそも世界的に見ると会社はお金を稼ぐための所であり、それ以上でもそれ以下でも無い。日本企業の家族主義的な企業運営は非常に珍しい。それでも1990年代前半までは家族主義的な煩わしさと引き換えに、強固な生活保障があった。

 1990年代後半からリストラが一般的になり、強固な生活保障は徐々に無くなっていく。その一方で家族主義的な煩わしさだけは、2000年代、2010年代にも依然として残り、それが私にとっては違和感であり、ストレスであった。生活保障も定期昇給も無いのに、忠誠心や仲間意識を要求する企業にホトホトうんざりしていたのだ。

 

仕事の本質へと原点回帰

 成果物を提示し、それに見合った対価を受け取る。これが仕事の本質だ。仕事の本質に回帰して行くきっかけをワーケーションや在宅勤務は与えてくれた。

 上司との飲みニケーションやゴマすりは仕事の本質では無いのに、その本質的でない部分が人事評価に大きく介在していたことが、日本企業の負の側面だったと感じる。

 成果物による評価によって、人事評価の公正化や透明化が促進されるだろう。その反面で、成果は出せなくてもムードメーカー的な役割や調整能力だけで生き残ってきた人には苦しい時代になっていく。もちろんそうした能力は組織の潤滑油になるが、それはあくまでも+α的なものにしか過ぎない。コアとなる技術や能力を構築していく必要がある。