リトルインディアの宿をチェックアウトし、バスツアーの集合場所に向かう。シンガポールへ観光に来た様々な国の人たちをバスに乗り込む。バスはガーデンズ・バイ・ザ・ベイやマーラインオンなどを巡る。バスが通行する道路を見下ろす高層ビル群に経済都市としての無機質さ感じた。乗客とのコミュニケーションは有意義で、私が被災地から脱出したことを話すと大層心配してくれた。中には困ったらうちにおいでとアドレスをメモ帳に書き残してくれた人もいた。ツアーは午前中で終わったので、ゴンドラに乗ってセントーサ島に向かった。ゴンドラではロシア人夫婦と同席した。海をバックにした写真を撮影してあげたら、えらく喜んでくれた。フードコートで食事をとり、マレー鉄道の始発駅のシンガポール駅に向かう。窓口で明日のシンガポール→クアラルンプール間の列車を予約した。オーチャードストリートのネットカフェに立ち寄り、mixiのメールボックスを開くとバンコクの友人からの返信は未だ無かった。今日宿泊するホテルにチェックインし、荷物を部屋に置いてオーチャードストリートの屋台で夕飯を食べる。
オーチャードストリートを行きかう車、人々を食堂からぼーっと眺め、自分の今後を考える。今の会社はもう辞めたい。当時は退職代行サービスなども無いので、会社には一度戻り、引継ぎや退職手続きをしなくてはいけない。何より会社が社員の年金手帳を預かっているのだ。年金手帳を何とか取り戻さなくてはいけない。それが当然と思っていたが、その後転職した数社で社員の年金手帳を預かることなど一度も無かった。
東証一部の大企業だが、社員をソフト面、ハード面で拘束するひどい会社であった。毎年七月の第三土曜日あたりに開催される夏祭りの準備に無償で若手社員を駆り出す。社内運動会の練習に派遣社員まで巻き込む。入社時にはパスポートと年金手帳を預かる。(パスポートは海外工場実習後に返却された)給与の振り込み口座は会社と懇意の地銀の口座開設を無理やりさせられ、そこに指定。振込手数料が高く、使い勝手の悪い口座。入社式では君が代斉唱。(社員への国家観の押し付け。新入社員には外国人もいた。) 入社初日に本社で年金手帳とパスポートを徴収する所から、アレレと思っていたが、入社式の君が代斉唱で違和感が増幅。入社式の最後は全体記念撮影となったが、社長が懇意の写真業者を段取りが遅えよと怒鳴り散らし、違和感が確信に変わった。入る会社を間違ったかもしれない。今振り返ると完全にブラックですね。自分は当時から会社とはお金を稼ぐところであり、それ以上でもそれ以下でも無い。何故、それ以外のところでも社員を縛り付けるのか理解が出来なかった。しかし2000年代までは多かれ少なかれ日本の大企業にはその様な側面があったように思える。
さらに入社式の後は一か月の集合研修があった。福島第一原発に近いJビレッジがその場所であった。新入社員の研修施設の隣の大事故で自分は会社を去るに至る。なんたる奇遇というか皮肉というか。最初からオメエは来るなということだったのだろう。
入社後の半年の研修を終えて、私は設計部の配属となった。社内運動会が配属日の週末に開催されていたが、設計部は忙しいということで参加を免除されていた。しかし、応援にだけは行こうということで先輩の車で会場まで強制連行させられてしまった。私はてっきり、寮で思う存分に羽が伸ばせると思い、前日にビールをしこたま飲んでしまっていた。残念過ぎることに会場に向かう車の中で、ゲロをまき散らし、先輩の新車のオペルはゲロまみれ。ゲロを取り除いても腐臭が消えることは無かった。幸先が悪すぎるスタート。配属翌週の私にとっての第一回部内ミーティングは自己紹介の大半が諸先輩方への陳謝に終始した。マイナス100からのスタートであった。
(しかし私はそのマイナスの借りを返すことなく、いやむしろマイナス1000くらいにしてしまった訳だ。)設計部の管理職で俺の事を評価してくれたのは部長くらいだったな。入社してから四年弱、本当に良いことなど無かったな。OB訪問もしたのに、OBは上っ面の良いことしか言わなかったな。それを信じた自分が馬鹿だった。会社への思いを巡らしているうちに目の前に置かれたチキンライスが冷え切っていたことに気が付いた。
リトルインディアの宿よりもグレードの高いホテルに戻り、久々に温かいシャワーを浴びた。明日はシンガポールから鉄路クアラルンプールだ。シンガポール支店長さん、本当にごめんなさいという鎮魂の気持ちを抱えながら、ゴム農園の中を疾走するマレー鉄道に思いを馳せて眠りにつく。