今回のコロナ渦はある意味で日本人が目を覚ます最後のチャンスではないかと感じます。(衰退がこのまま加速化するか、何とか衰退のスピードを緩やかに出来るか)
2000年代前半は小泉政権が発足し、郵政改革で失った10年を取り戻せという狂信的熱狂の中での幕開けとなりました。派遣法の改正(改悪)で表向きの企業業績は復調しましたが、あくまでも企業業績のみで民衆はその恩恵にあずかれず、むしろ更に苦しくなったというのが現実でしょう。
そうした経済指標と自分達の家計の実情との剥離の間でのモヤモヤ感を抱いたまま2005年、2006年が過ぎ、2008年にリーマンショックが日本にも波及しました。日比谷公園の年越し派遣村に多くの若年非正規労働者が集いました。その時に多くの日本人は格差を本当の意味で実感したのだと思います。1990年代まで多くの労働者が中流だと思っていた、そして1990年代後半から2000年代初頭も無理やり皆が中流だと思いこもうとしていたが、それが見事に裏切られた瞬間であったと。電車のガード下、河川敷、橋の下という普通の勤労者の視界下の見えない場所に位置した貧困が、公園というフラットな世界に出現してしまった。
貧困というものが手を伸ばした先に届く非常に近い場所にある。そうした漠然とした恐怖心に襲われた人が多かったのではないでしょうか?
その時に現実と向き合って、各種改革、改善に取り組めばまだ取返しがついたと思うのです。しかしながら、民衆を徐々に蝕む貧困、少子高齢化といった問題から目を逸らし、沈み行く日本の中でオリンピック招致をぶち上げました。郵政改革では失った10年(20年)を取り返せなかった、でも今度こそはオリンピック特需で日本は甦るはずだ。
2011年に東日本大震災が起きても、2年後の2013年くらいには多くの人々の関心を薄れさせ、オリンピック狂騒を煽るメディア。暗闇やそこで悶える人々、貧困から目を背け、オリンピックという明るい希望にすべてを懸ける。私はpositiveな経済発展の象徴であるオリンピックではなく、大衆の目くらましとしてのオリンピック利用に非常に懐疑的で、諸手を挙げてオリンピックに賛同をすることはついぞ出来ませんでした。
そうした中での2020年のコロナ問題の勃発。オリンピックという見せかけの希望が崩れ、否応なく、今まで先送りしてきた問題に向き合わざるを得なくなりました。ここで問題と正面から向き合い、少しでも改革に取り組めるか否かがが、日本のこれからの30年を左右すると考えます。
私は無神論者ですが、2010年代のオリンピック狂騒とその失敗は神様が日本人に与えた天罰と試練なのではないかと。(目の前の問題から目を背けるな。為政者が民衆を騙すな。)