スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

パワハラ対処法

パワハラ、セクハラ

誰しも多かれ少なかれパワハラ被害を経験した事があると思います。正直不愉快ですし、行き過ぎたら刑事事件にまで発展するものです。

対処法(大げさなリアクション)

そんな時の1番効果的な対処法を教えます。パワハラを受けた時に大袈裟にリアクションする事です。例えば大袈裟にうなだれる。部屋から退室して暫く戻らない。(何故戻らないか詰問されたら、気分が悪くなったと回答しましょう。)会議などで皆から詰められたら、次の日会社を休むのも手です。そうすると次第に風当たりが弱くなります。 
ここで無理して耐えると、さらにパワハラエスカレートします。サッカーのファウルで大袈裟に転ぶのと一緒です。

無理せずに休む

 本当に苦しい時は無理せずに休むことが大切です。それでも事態が改善されなければ、転職を視野にいれましょう。本当に会社に行きたくなければ行かなくても問題ありません。

駄目なら転職

 休んでも気力が回復しなければ、退職代行などを利用して、退職手続きを進めましょう。日ごろから、すぐに転職先が見つからないことを想定し、半年分の生活費を貯金しておきましょう。金額の目安としては、独身独り暮らしならば家賃を考慮しても100万円あれば何とかなると思います。退職の三か月後からは失業保険がもらえますので、100万円あれば余裕があります。半年以上のブランクがあると転職が難しくなるので、なるべく退職後の半年以内に再就職先を決めましょう。

 

面倒な飲み会の幹事を回避する方法

新入社員に必ず割り当てられる飲み会の幹事。会社の部内で出欠確認して、お店抑えて、料金徴収。幹事なので当然参加はmust。

そんな面倒な仕事を回避出来るお勧めの手法をお伝えします。それはズバリ、料理が微妙なお店をシレッとチョイスし続けることです。もしくは、好き嫌いが別れるエスニック料理のお店。それ以外の出欠管理、料金の徴収、店の駅からのアクセスは完璧にする事がポイントです。ここを外すと仕事の評価も下がります。こいつは真面目にやってるけど、どうも趣味、趣向がズレてる。→だからこいつを幹事にするのは止めよう。この流れが最強です。

長い春休み(東日本大震災の記憶)ペナン島編

「バタワース、バタワース」明け方にペナン島への起点となるバタワース駅の到着を知らせる車掌の声。ミネラルウォーターを飲み干し下車準備に取り掛かる。寝台列車だが、十分眠ることが出来た。特に疲れは感じない。バタワース駅で下車すると階段でフェリー乗り場に上がる。小銭を払って、迷路のように区切られた柵で待つ。朝日が眩しい。しばらくするとペナン島からのフェリーがやってくる。自転車、スクーターを携えた通勤客風の乗客達。彼らの降車と入れ替わりで、フェリーに乗り込む。フェリーと言っても特段座るところも無く、通勤電車の船版といったところ。

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 ペナン島の玄関口であるジョージタウンに到着するとそのエキゾチックな雰囲気に魅了された。芝生の公園から眺める白いセントジョージ教会と青空とのコントラストが非常に美しい。ハーモニーストリートにはヒンズー、仏教、キリストなどの様々な寺院が共存していた。途中でにわか雨が降ってきたが、お構いなしにずぶ濡れになりながら散歩を続けた。しばらく歩くとチャイナタウン風の商店街に出くわし、そこでナイキのスカイブルーのTシャツを購入した。このTシャツは肌になじみ、放浪中非常に重宝した。

 昨日の駅で買ったオレオとコーヒーで軽く朝食を済ませ、さらに町を散策する。まだ午前10時なのでバスでペナン国立公園に向かう。森林と海のコントラストが美しい。木の間を展望して移動できるようなところで一人の日本人女性と出会った。北海道出身で早稲田大学を卒業し、番組制作会社で四年働いていたとの事だ。会社を今年の二月で辞めて、世界を周遊中とのことだ。せっかくなのでテレビ業界のことについて色々と質問をさせてもらった。2000年代からテレビがつまらなくなったのは何故かという問いに対しては、番組制作サイドとしては面白い企画を沢山考えているが、PTAからのクレームなどの縛りで、なかなか思うような表現が出来なくなっているとのことだ。また、テレビ局の社員と違い番組制作会社の労働条件は悪く、深夜までのサビ残も常態化していたそうだ。原発事故の日本の報道(新聞、テレビ)が紆余曲折している様を客観的に認識していた。その時点で、テレビや新聞の古いメディアの限界を感じ始めていた。今回、彼女からテレビでのがんじがらめの表現の制約を聞き、益々テレビの時代は終わるだろうと確信した。彼女によると思い通りの表現をしたい人たちはインターネット業界に活路を見出しているとのことだ。

 彼女と散歩をしながら、しばしの雑談を楽しんだ。宿の地域も同じところだったので、公園の散歩を終えた後に一緒にバスで帰ることになった。先ほどの晴れの天気から一転して曇天に様変わり。雨が降ってきそうなので、急いで宿に向かうことにする。15時過ぎに宿近くのバス停に到着。雨が降り出していた。別れ際一緒に17時くらいに少し早い夕飯を食べる約束をした。私は宿にチェックインをして雨で少し濡れた体をシャワーで温めた。濡れた服をどうしようと思案していると宿に洗濯してもらえるサービスがあることを思い出した。クアラルンプールから溜まった服をまとめてお願いする。五から六着くらい依頼して、日本円で300円くらいだったはずだ。

 17時に待ち合わせ場所に行くが、彼女が来ない。30分ほど経過してやっと現れた。雨は相変わらず止む気配はない。彼女はiphoneを持っていて、近くのwifi電波を拾ってメールのチェックをしていた。2011年時点で、マレーシアなどの東南アジアでwifiが自由に使用できており、日本の電波寡占による自由化の遅れに危機感を抱いた。

 少し早い夕飯を済ませた後にネットカフェに立ち寄る。mixiのメールをチェックするとバンコクの友人から返事が届いていた。バンコクの彼のマンションに居候させてくれるとのことだったので、お世話になることにした。ペナン島の居心地が良く、このまましばらく滞在したかったが明後日にバタワースからマレー鉄道でバンコクを目指す予定を立てた。

ニート、フリーターから正社員を目指す

電気系の国家資格を取得しよう 

 コロナ禍の影響で、就職活動に難儀し不本意ながらフリーターになった人達。学校や会社での人間関係が振るわずに引きこもり、ニートになった人達。そんな人達が何とか正社員として自立できる方法を指南します。

 それはずばり電気系の資格を取得することです。ただし、資格取得の前提に中学卒業レベルの数学の知識は必要です。その上で、まずは第二種電気工事士の資格取得を目指します。地域ごとにポリテクセンターという職業訓練校があるので、地元で最も近いポリテクセンターの電気設備課に通い、第二種電気工事士の資格取得を目指しましょう。

電気設備技術科のご案内 (jeed.go.jp)

 第二種電気工事士の試験には実技試験があるので、実際に手を動かして、完成した配線を必ず先生や講師にチェックしてもらいましょう。最初、先生に質問するのは躊躇しますが、質問をする過程でコミュニケーション能力も磨かれていきます。

 ポリテクの過程を終了し、第二種電気工事士に合格したらビルメンテナンスの求人を探しましょう。第二種電気工事士を所有する20代であれば、いくつかの会社の面接にはたどり着けるはずです。

電気工事士資格持ちはビルメン(ビルメンテナンス)求人に転職しやすい? | 電気・機械転職ナビ (denkijob.com)

電気工事士が辛くなったらビルメンへ転職すると、楽々年収500万稼げるよ! (takka001.site)

 

とりあえず三年

 就職先が決まったら、パワハラや違法な長時間労働が無い限りは三年頑張りましょう。その間に危険物乙四などの資格を取得しましょう。当初は契約社員かもしれませんが、頑張って継続し正社員を目指しましょう。正社員になると社会保険、厚生年金の点でフリーターやフリーランスよりメリットがあります。厚生年金は会社が半分負担してくれるのでお得です。

 

プログラマーは年取るときついかも

 以上が親が亡くなっても、遺産を当てにせずに一人で生きていくための最低ラインをクリアする方法です。プログラマーなどの道もありますが、やはり年齢を重ねるとプログラマーだけで食べていくのはきついものがあります。(プログラマーはメンタルを壊しやすいです。また募集要項に40歳未満希望と明記されていることもあります)その点設備管理は70歳以上で雇用されている方も多くおり、技術だけでなく長年の経験も武器になります。

 

営業はもっときついかも

ニートやフリーターがなれる営業職は飛び込み営業、きついノルマなどブラックなものが多くお勧めしません。やはり電気工事士の資格を取って、ビルメンになるのが消去法的に一番良いと思います。またニートやフリーターは対人関係に苦手意識を抱えている方も多いので、そうした面でも営業は避けましょう。

 

エアコン取付工事は稼げる

第二種電気工事士の資格を馬鹿にする人たちもいますが、副業で夏場のエアコンの室外機の取り付けなどでは月収100万円稼げる人もおり、持っていればいざという時に心強い資格です。

 

履歴書の資格欄に資格を書ける自信

自分には学歴も職歴も何もないと悩んでいる方、まずは電気工事士を取得しましょう。ちょっとだけ世界が変わります。履歴書の資格欄に電気工事士と記載できるだけでも大きな自信です。工具や部材は通販でセットをまとめて購入するのがお得です。ホームセンターだと初心者は何処に商品があるか戸惑うかもしれません。

yasuyan.net

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WAIS-III 知能検査結果(エリートが生まれにくい閉塞した日本)

 

 

生い立ち

 私は幼いころから、集団になじめず孤独を好んでいた。親からはもっと友達と仲良く遊びなさいと言われ、子供たちが遊んでいる集団に放り込まれても、いつの間にか弾き出され、結果的に孤独になる。学生時代は勉強がそこそこ出来たので、多少集団になじめなくても、学業成績の良さで下駄を履くことが出来た。よって先生や周囲の仲間からも多めに見てもらえたため、特にそれが問題になることも無かった。私がそうした精神的特異性で行き詰まり始めたのはおそらく高校時代からだと感じている。私が通っていた高校は県のトップ校で、皆それなりに勉強が出来た。中学までは優等生であった私もその高校では平凡な一般人。空気を読まない発言、緩慢な動作などを部活の友達からいじられるようになった。大学時代は高校の部活よりも人間関係が薄くなるので、そこまでいじられることは無かった。

 

社会人時代の悲劇

 本当の悲劇は新卒で入社した会社から始まった。会社はどんなに大手であっても、役に立たない、慣例に基づいた、くそつまらなくて、効率の悪い作業が存在する。私は好き嫌いがはっきりしており、そうした業務に全く興味が持てず、ミスを連発した。

 真面目にやれ。仕事をなめてんのかと言われたが、論理性に照らし、無駄だと思う仕事には全くモチベーションが上がらない。結局同じミスをやらかす始末。

 ただし、無駄な仕事でも会社にとっては必要な仕事だから真面目にやらなければならないと頭では理解し、頑張って取り組んだつもりである。しかし、うまく出来ない。時として自分を責めたりもした。同期の中で当初は先頭集団に位置していたが次第に窓際的にポジションに追い込まれることになった。さらにお前の頭はおかしいと言われたこともあり、ひどく傷ついた。

  幼いころから、大人が言うから、先生が言うから。そうした理由だけで無批判に意見を受け入れることが出来なかったのだ。先生や上司が行っている事でも、論理性に照らし間違っているなら、従う必要が無いと判断していた。つまり、大人から見たら、非常に扱いにくい子供であったのだ。

とりあえず精神科へ

 悩みに悩んでいた最中、webサイトで大人の発達障害という記事に出くわした。私と同じような悩みを抱えている大人が精神科を受診し、自身の適性を客観的に把握し適職についている成功例が紹介されていた。これだ。私も精神科の受診を思い立ち、実際に検査を受けた。(WAIS-III検査) 

 

WAIS-III検査結果 

・言語性IQ 135

・動作性IQ112 

・全検査IQ127

 基準については各論あるが、動作性IQと言語性IQの差が20以上開いているのは発達障害を疑われるらしい。(会社生活がうまく行かないのもおそらくこのせいだろう。興味のある対象には過集中を発揮する一方で、興味の無いものには全く集中できない。)

 私はこの検査結果について特にショックは受けなかった。むしろ、何故自分は集団の中で孤立しがちになるのか自分自身に対して非常に合点がいったのだ。

 IQの平均が凡そ100前後であり、IQが70~80は普通学校の特別支援学級に、70以下は特別支援学校に通うことになるとのことだ。

 私は普通学級だったが、平均値からの距離は27(127-100)で、IQ70~80の特別支援学級の子供たちと100を基準としたレア度でいえば同じゾーンにいたわけだ。(学業などとの相関が大きい言語性IQに至ってはIQ70以下の特別支援学校の児童と同じゾーン)

 そりゃ普通の周りの友達と上手くいくわけない。幼いころからの言い知れない違和感が氷解した瞬間だった。動作性IQと言語性IQが同じくらいであれば、もう少しバランスの良い社会生活を送れたのかもしれない。中学時代は周囲の友達が熱中していた歌謡曲やお笑い、エアマックスなどのファッションに全く興味を持てなかった。

 

日本で突出した天才が生まれにくい理由

 そして何故、日本からずば抜けた天才が輩出されないか、その理由が分かった気がした。それは高IQ児童に対する公的なフォローが全く無いからだ。

 一般の人からすると大は小を兼ねるで、高い人が低い人に合わせるのは簡単だろうと思えるかもしれない。それは大きな間違いである。水泳や陸上をやっていた人達は、よく理解できるかもしれないが、ペースの早い人が遅い人に合わせると逆に疲れるのである。速い人はそのまま速いペースで走らせるのが良いのだ。

 高IQに生まれ、運よく経済力のある家庭に生まれた児童は塾に通わせられて、私立や国立の中学校などに進学し、同じような知的水準の仲間に囲まれた環境で過ごすことが出来る。周囲とのギャップの苦痛を感じずに伸び伸び成長出来るだろう。

 しかし、高IQだが経済環境や親の理解に恵まれず、通常の公立中に進学すると、場合によっては周囲との軋轢から不登校になる児童もいるだろう。最近になって公立中学校でも能力別クラスが編成される地域も出てきたが、私が公教育を受けた20~30年前は能力のばらつきのある生徒が同じクラスに玉石混交していた。

 公立中になじめずに、勉強までも嫌いになりドロップアウトした高IQの生徒は闇の中に多く埋もれているのではないだろうか?そうした生徒が不憫でならない。

高IQの生徒に対する公的な支援は技術立国日本では急務である。

 

2021年に向けて雑感

今回のコロナ渦はある意味で日本人が目を覚ます最後のチャンスではないかと感じます。(衰退がこのまま加速化するか、何とか衰退のスピードを緩やかに出来るか)
2000年代前半は小泉政権が発足し、郵政改革で失った10年を取り戻せという狂信的熱狂の中での幕開けとなりました。派遣法の改正(改悪)で表向きの企業業績は復調しましたが、あくまでも企業業績のみで民衆はその恩恵にあずかれず、むしろ更に苦しくなったというのが現実でしょう。
そうした経済指標と自分達の家計の実情との剥離の間でのモヤモヤ感を抱いたまま2005年、2006年が過ぎ、2008年にリーマンショックが日本にも波及しました。日比谷公園年越し派遣村に多くの若年非正規労働者が集いました。その時に多くの日本人は格差を本当の意味で実感したのだと思います。1990年代まで多くの労働者が中流だと思っていた、そして1990年代後半から2000年代初頭も無理やり皆が中流だと思いこもうとしていたが、それが見事に裏切られた瞬間であったと。電車のガード下、河川敷、橋の下という普通の勤労者の視界下の見えない場所に位置した貧困が、公園というフラットな世界に出現してしまった。
貧困というものが手を伸ばした先に届く非常に近い場所にある。そうした漠然とした恐怖心に襲われた人が多かったのではないでしょうか?
その時に現実と向き合って、各種改革、改善に取り組めばまだ取返しがついたと思うのです。しかしながら、民衆を徐々に蝕む貧困、少子高齢化といった問題から目を逸らし、沈み行く日本の中でオリンピック招致をぶち上げました。郵政改革では失った10年(20年)を取り返せなかった、でも今度こそはオリンピック特需で日本は甦るはずだ。
2011年に東日本大震災が起きても、2年後の2013年くらいには多くの人々の関心を薄れさせ、オリンピック狂騒を煽るメディア。暗闇やそこで悶える人々、貧困から目を背け、オリンピックという明るい希望にすべてを懸ける。私はpositiveな経済発展の象徴であるオリンピックではなく、大衆の目くらましとしてのオリンピック利用に非常に懐疑的で、諸手を挙げてオリンピックに賛同をすることはついぞ出来ませんでした。
そうした中での2020年のコロナ問題の勃発。オリンピックという見せかけの希望が崩れ、否応なく、今まで先送りしてきた問題に向き合わざるを得なくなりました。ここで問題と正面から向き合い、少しでも改革に取り組めるか否かがが、日本のこれからの30年を左右すると考えます。
私は無神論者ですが、2010年代のオリンピック狂騒とその失敗は神様が日本人に与えた天罰と試練なのではないかと。(目の前の問題から目を背けるな。為政者が民衆を騙すな。)

長い春休み(東日本大震災の記憶)甘苦い抹茶アイス編

 今日はマレー鉄道の夜行寝台列車でバタワースに行き、そこからフェリーでペナン島に行く。10時くらいまでのんびりとして、宿をチェックアウトする。この宿も窓無しだったが、窓が無い宿は精神的にきつい。日照時間の少なさと自殺率について相関が一定程度認められるが、日光を感じないと気持ちがふさがってくるので合点が行く。

クアラルンプール駅にバスで向かう。マレー鉄道の窓口で本日の夜発のマレー鉄道、バタワース行きを予約する。まだ昼過ぎで、列車が出発する夜まで時間を持て余す。

市内をブラブラ散歩する。タワー型の展望台が目につき、そこに行こうとするが、土台が不安定そうで辞めることにする。

 読んでいる途中の本を公園で広げる。公園で勝間さんの本を二日がかりで読了した。組織を変えようと努力したかについて、自問を再開する。そもそも従業員数が数万の会社で、新人が組織を変えることが出来るのだろうか?会社は組織に疑問を持たせる余地をふさぐために、新人の頭を押さえつけ、洗脳しようとしていなかったか?私はその洗脳に抗うことで精いっぱいであった。派遣社員は安い給料で頑張っているんだから、正社員のお前らは文句言うな。士農工商よろしく、派遣社員をうまくスケープゴートにして、正社員をぼろ雑巾のように使い倒していなかっただろうか?

(配属一週間後に夜の八時までの残業申請をしようとしたら、残業代は夜の10時以降という謎のルールで申請が却下された。)

 小泉政権派遣社員の業種拡大が為され、私が所属していた会社でもユニホームの違う派遣社員と正社員が共存している独特の風景が見られた。当時の40代以上の正社員と、就職氷河期世代を皮切りにした30代以下の世代は正社員、派遣社員、請負社員の混成部隊。さらに40代以上の正社員は設計という直接業務から離れて、ふんぞり返っている人達が多かった。3次元CADも英語も出来ないおっさんたちの面倒を30代以下が支える歪な構造。他の会社でもきっとそうだろう。もちろん40代以上で立派にバリバリ仕事をこなしている正社員はいることはいる。

社員食堂では正社員は半額の補助があったが、派遣社員は全額負担のため、彼らは食堂では無く、外のベンチや事務所の机でお弁当を食べている人たちがほとんどだった。性能評価試験でお世話になった派遣社員は毎日カップラーメンを一つ持ってきて、それをすするだけ。同じ空間に同居しても、明らかな格差が存在していた。当然心理的一体感など望めるべくもない。待遇の不満を訴えて、団結するなど出来るわけも無い。

派遣社員、請負社員を安くこき使い、それをスケープゴートにして、正社員をさらにこき使う。うまく出来た搾取、支配構造だ。就職氷河期の影響で正社員の採用は絞られ、若手正社員にのしかかる負担はとんでもなく重い。それを跳ね除けて、成長を遂げる正社員がいる一方で、半数位は精神や体を病んで中途退職する若手正社員が後を絶たなかった。2007年に私が所属した5人のチームも私の配属後の一年で20代の正社員の若手が二人も辞めてしまった。二人とも限界まで耐えに耐え、ある日突然次の日から会社に来れなくなり、半分失踪するような辞め方だった。当然引継ぎや、送別会なども無い。残された私には二人分の仕事が降りかかってくることになる。

辞めた2人のうちの1モデリングデータベースを眺めると更新時間が朝の4時になっていた。この国は太平洋戦争時の参謀の無策で若者を戦地で大量に犬死させ、それに似た様な事を5060年後に行っているではないか。

私は歯を食いしばって踏ん張ることで精いっぱいだった。その後の2008年にはさらなる不幸が訪れる。リーマンショック。派遣切りが怒涛の嵐のように進められた。毎週金曜日は派遣社員のお別れの挨拶が夕礼で執り行われていた。従来派遣社員さんが行ってくれた評価も私がやることになった。設計と評価を一人で同時に行い、疲労困憊。設計室と評価センターを一日何度も往復することになった。はあ、辞めたい。しかしながら、2007年まで活況だった第二新卒の募集も各社一斉に凍結され、入社二年目の私は皆目身動きが取れない。純粋な中途として転職するにはキャリアが足らない。(入社三年未満)八方ふさがりの中、2010年までしがみついてきた。とりあえず、ひとつの壁である入社三年は通過したのだ。確かに組織を変えることは出来なかった。でも自分は逆境を耐えたんだ。今の会社を辞めても何とか食っていけるだろう。自分一人で組織を変えられないが、裏を返せば自分一人が抜けたところで会社は回る。モヤモヤした思いを振り切ってベンチを立つ。

宮城にいる会社の同僚や友達は一体どうしているのだろう?避難所で少ない配給で食いつないでいるのか?機転を利かせて、山形県秋田県に避難している人もいるのだろうか?

出来れば避難してほしい。本当に被災地にいなくてはならないのは高い給与を貰っている会社の役員をはじめ、部課長などの管理職であって、末端社員は自身の身の安全を優先してほしい。日本人ゆえの同調圧力で、一人で避難することは精神的に苦しいだろう。自分もその苦しさに押しつぶされそうになる。

 クアラルンプール駅の近くのスターバックスに立ち寄り、寝台列車発車までの時間をつぶす。考えるのをしばらくやめよう。席に腰掛け、窓辺に目をやると日本人風の美しい女性。試しにAre you Japanese?と声をかけてみた。Noという回答。残念に思い再び席につく。彼女はポーカーフェイスで煙草をくゆらせながら、コーヒー片手に英文の法律書のようなものを読み込んでいた。Noと言われたが、彼女に興味がわき、ちらちらと視線を送る。そうすると彼女がこちらにやってきて、一緒にコーヒーを飲もうと言ってきてくれた。お互い簡単な自己紹介を交わした。彼女の名前はCarmen Takkyで祖母が京都に住む日本人なのだそうだ。どうりで日本人と誤解したわけだ。今はオーストラリアの法律事務所で働いていて、現在帰省中とのことだ。私がよほど苦悶の表情で、考え事をしていたのだろう。彼女は一生懸命私を元気づけてくれて、一緒にハーゲンダッツの抹茶アイスを食べに行こうと私を外の店に連れ出してくれた。申し訳ないことに彼女が金を出してくれた。彼女に流れる日本人のDNAが抹茶を喚起したのかもしれない。抹茶のほのかな甘さと渋さが下の中で踊る。お互い連絡先を交換し、別れ際元気出してねと声をかけてくれた。自立心にあふれ、凛とした魅力的な女性だった。日本人女性特有の過剰な自己承認欲求が無い。彼女の黒髪の美しさが、夕焼けに映えて、別れた後も余韻を引いていた。また会いたい。

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抹茶アイスありがとう


 夕方になり、クアラルンプールの駅舎に入る。駅の屋台で軽食を済ませ、バタワース行の寝台列車に乗り込んだ。中央通路を挟んだボックス席をベッドに改造し、三段ベッドにしつらえてあった。JR583系を想起させる構造だった。明日のバタワース着は早い時間なので、ベッドに横たわるとすぐに眠りについた。