スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

長い春休み(東日本大震災の記憶)

関東の実家に戻る

 兵庫の親戚の会社で雇ってもらう夢は儚く潰えて、とりあえず関東にある実家に戻ることにした。

 時々メールで連絡を入れていたが、親を非常に心配にさせてしまい、非常に申し訳なく思う。紆余曲折ありながらもせっかく東証一部上場企業に入社出来たのに、おそらくその会社にもういることも出来ないというのも親を憔悴させてしまった要因であったように思う。

 とりあえず在職中の会社に謝罪しなくてはいけないが、上司に直接電話する勇気がわかず、在職中に非常に慕っていた‘Hさんの携帯に電話する。私からの電話に戸惑っていたようであるが、機転を利かして上司に取り次いでくれた。

 怒鳴られることを覚悟していたが、無事で安心したとの言葉に拍子抜けした。どうやらタイで消息不明で、そのまま行方不明で死亡事故でも起こしたのかと会社全体で私の安否を危惧していたようだ。

 

東北の会社に戻る

 とりあえず、中途半端になっていた私の仕事を片付けるのと謝罪を行うために東北にある会社に戻ることにした。

 会社、上司に対して申し訳無い気持ちでいっぱいであった。しかし正直会社をもう辞めたいという気持ちでいっぱいで、退職の意思をいつ伝えようか非常に気をもんだ。会社に四年間在籍し、一年目から辞めたい気持ちでいっぱいで、一年で辞めたらどこにも再就職できないから、何とか三年はしがみつこうと思って頑張ってきた。そうして何とか四年が経過したが、四年目は辞めるタイミングを虎視眈々と図っていたのだったが、その矢先に震災が起きたのだった。

 出社初日は全体朝礼だった。中途半端に声をかけられるのも嫌だったので、朝一に最前列に立った。

 東南アジア放浪中に体重が15キロほど減少し、朝礼後に会社内ですれ違う同期には一様にやつれたねと声をかけられた。

 

退職でもめる

 朝礼後は当然ではあるが、部長、課長交えての三者面談に突入した。正直、会社を辞めたい気持ちで一杯で、今回、迷惑をかけた責任を取らしてもらう形で辞めさせてくれと懇願した。

 しかしながら、再就職先が決まって無いのに辞めるのは君の人生が心配だとか、よく分からない理屈で退職の願いは受け入れられなかった。取り敢えずもう少し考えろと諭された。

 直属の上司からも辞めるなよ、続けるんだろと圧力をかけられた。

 取り敢えず、これから二週間は引き継ぎ業務に集中しよう。そして、三週間後に高校の先輩の塾で働かせて貰いますと言って辞めよう。再就職先が決まれば文句ないだろうと。そこから三週間は罹災証明を市役所で発行してもらうなど会社を辞めた後の準備にも奔走した。仕事の方も自分が持っている仕事の整理は精一杯行った。

 

退職手続き

 それから三週間経過して、再度三者面談の場で、先輩の塾で働くので辞めますと伝えた。直属の上司からは、塾で働くなんて不安定だと難癖をつけられたが、最後は有給は放棄するからとにかく辞めさせてくれと懇願し、何とか納得して貰えた。

 そこから、総務を訪れて年金手帳の返却、離職票の発行などの手続きをして貰った。ほっとしたと同時に、最後に迷惑をかけて申し訳ない気持ちもこみあげてきた。

 

ささやかな送別会

 こんなクソな自分にも送別会を開催してもらえる事になった。参加者は直属上司、課長、同期の一人と先輩一人と新人の二人。どうせ辞める身なので、東南アジア放浪中に現地のキャバクラを楽しんだり、ビザ延長の為に何度もラオスを行ったり来たりとした話をぶっちゃけた。そうしたクソくだらない話に花がさいた。

 送別会の後は、直属の上司と場末のキャバクラに行ったが、キャバ嬢が日本語が怪しい30台の中国人で、全くトークを楽しめなかった。

 後味の悪い幕切れでキャバクラを後にして、直属の上司と握手を交わして別れた。

 

いざ、岡山へ

 あくる日、寮の荷物を全て関東の実家に送り、列車で会社のある宮城から岡山を目指した。東北新幹線だと福島を通過するのが怖いので、陸羽東線陸羽西線日本海側に出て、そこから羽越線で新潟に出ることにした。駅でとんかつ屋に立ち寄り、かつどん定食の大盛りを堪能した。有休を放棄したので、会社を辞めたら即、無職。再就職が決まるまで、これが最後のごちそうだ。じっくりと豚肉をかみしめた。かつどんはご飯のお替りができなかったのに、お店の人は何も言わず、お替りをよそってくれた。私の雰囲気が悲壮感に包まれていたからであろうか?!

 午後に日本海側の余目に到着したが、日本海側は震災の影響が微塵も感じられ無かった。普段の日常が存在していた事に拍子抜けした。

 余目から特急いなほに乗り、新潟からは寝台急行北国に乗車して、大阪を目指した。新潟駅でカフェに立ち寄り、外を見やると、若者たちが路上で楽し気にダンスをしており、震災の緊迫感から解放された。深夜に急行北国の三段寝台によこたわった。疲労が蓄積していたようで、非常によく眠れた。大雨で大阪への到着が‘2`時間ほど遅れた。

 そこから、新快速と鈍行を乗り継ぎ、昼過ぎに岡山に到着した。岡山に到着したとき、疲れがどっと押し寄せてきた関係で、ロングシートにそのまま寝そべってしまっていた。とりあえず、被災者の支援を受けるために、路面電車岡山県庁を目指した。