スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

カメラを作る側と使う側

2000年代の20代での海外旅行

 私は20代の頃、東証一部上場のメーカーに勤務していました。ちょうどその時に海外一人旅にはまっていて、会社のお盆休みや正月休みには10日ほど海外旅行に行っていました。そこで、いつの頃か以下のような印象を抱くようになりました。

日本人 

 残業して、必死にスマホカメラに必要なレンズ、CMOSセンサー、カメラアクチュエーターを作って、i Phoneのカメラモジュールをハードで支えています。

 当然、一週間ほどの休暇で鮨詰めの飛行機でバタバタと主要観光地を回って、また鮨詰めの飛行機で帰って行きます。 

北米人

 長期休暇を満喫し、i Phoneのカメラを使って旅を楽しんでいます。彼らはi Phoneアプリケーションプラットフォームをがっちり抑えて、寺銭が常に流入するシステムを確立しています。

 

日本人って損じゃね?

 上記を分かりやすく例えると、一生懸命徹夜でグランド整備している日本人とそのグランドでサッカーを楽しむ北米人。さらに、徹夜仕事でふらふらなのに、スタンドで北米人のサッカーを応援しちゃうくらいお人よし。

 

多額のODA事業

 それだけでなく、日本人が休みもせずにあくせく働いて納めた税金が多額に海外投資されたり、貸し付けられたりしています。

www.jca.apc.org

 

真実は残酷である

 上記の事は私が多感な20代に海外を旅して知った冷酷な現実です。欲望に忠実な人間ならば、カメラを一生懸命作ったんだから、そのカメラを使って旅行を満喫したいと思うでしょう。

日本企業がブラック化しやすい理由

 日本政府が自国民に対して、その税金を有効に還元したり、投資をしません。それを削って、海外にジャンジャンお金を流しています。当然それを支える日本企業はブラック化しやすくなります。

 おそらく、アメリカのような強力な軍事力、外交力を有していれば、貸した金にそれなりの利子を付けて、その利子によってもう少し余裕のある暮らしが出来るんじゃないかと思います。

EEZにミサイルを撃ち込まれてもほとんどスルー

 これだけ頑張って労働して、税金納めて海外にお金を流しているのに日本以外の国が積極的に非難の声を上げることは少ないです。そもそも、それがニュースとしてきちんと取り上げられていないので、その事実を知らない外国人がほとんどです。

まとめ

 日本社会がちょっと頭が弱くても、真面目で従順な人材を評価するにはおそらく上記の理由があるのでしょう。

 小賢しくて、日本や日本人の真実に気が付き真面目にせっせと働いて税金を納めてくれない人が増えると困るんです。

 

 

 

 

2014ブラジルワールドカップの旅(レシフェ観光)

市内周遊ツアーへ申し込み

 日本から総計20時間以上の長旅を経て、ようやく辿り着いたレシフェ当然の帰結ではありますが、飛行機のシートに長時間座っていたために、腰が重たくなりました。ホテルの部屋のベッドに寝て休んでいましたが、ベッドのクッションが柔らかすぎて、余計に腰が重たくなりました。

 せっかく来たのに寝ているだけではもったいないと思い腰を起こして、レシフェ市内の一日観光ツアーに申し込みました。

 ホテルのフロントで申し込みを行い、翌朝にホテルの玄関で待っていると乗り合いのバンが迎えに来てくれました。

ポルトガルとオランダ文化の融合

 元来ポルトガルの植民地でしたが、オランダの侵略を受けて、街の光景はその影響を今でも色濃く残しておりました。

 レシフェは港町と言う事もあり、沿岸部に観光スポットが点在しておりました。下の写真はブラジル彫刻公園のモニュメントです。

ユダヤ教

 オランダ統治時代にユダヤ人が在住していた貴重な記録の様です。

オリンダ歴史地区

 カラフルにペイントされたヨーロッパテイストの建物で、やはり南米に来たんだと実感しました。赤道近くの常夏の都市なので、太陽の日差しが明るく、それにカラフルな建物が映えました。

 歴史を感じさせるブラジルバロック形式の重厚な教会が丘などに点在し、そこからの眺めも非常に素晴らしかったです。町の名前の由来は、ポルトガル語で"Ó, linda!"(日本語では、"なんと、美しい!"を意味する)とのことですが、その名称に恥じない素敵な景色を堪能できました。

 どこまでも続く美しい海岸線に思わず息を飲みました。

 ちょうど夕刻と言うこともあり、夕日に照らされる教会の白壁が得も言われぬ神々しさを放っていました。

 美しい海岸線を背景にすると一層映えますね。

帰路

 帰りの車の中で、隣り合わせた方が日系人の方で、40年以上も前に日本からの移民船でブラジルに移住したとのことでした。物腰は落ち着いていて、柔和な型でありましたが、日本から地球の裏の国に移住した勇気やフロンティアスピリットを醸し出し、強い芯を感じる方でした。

 やはり移住してから新天地を仕事を始めるのは大変だったそうですが、大変な事も過ぎてしまえばあっという間だと感慨深く述べられておりました。

 

 

2014ブラジルワールドカップの旅(出発編)

2014年の年初

 FIFAの公式サイトで、ワールドカップ観戦券の抽選販売を行っていました。そこで、何試合か申し込んだところ、日本対コートジボアール、ベルギー対アルジェリア、ナイジェリア対ボスニアが当選しました。

航空券

 アメリカ経由で行くのが一般的ですが、ESTAの申請が面倒なので候補から外しました。ブラジルは日本から見ると地球の裏側なので、どんなルートでも行けます。時間はかかりますが、それが面白いです。

 オーストラリア経由、中東経由、ヨーロッパ経由など色々迷いましたが、skyscanerでルフトハンザドイツ航空でフランクフルト乗り継ぎが往復36万円とリーズナブルな値段かつ待ち時間も数時間程度だったので、これに決定しました。

関西国際空港→フランクフルト国際空港

 飛行機の機体にFanhansaというワールドカップ仕様のイラストがペイントされており、飛行機に乗り込む前からテンションが上がりました。

 関空からフランクフルトまでの飛行機は比較的空いており、私のシートの隣に人が座っておりませんでした。よって、疲れたら横のシートへ体を倒す事が出来て、非常に楽でした。前日まで仕事を目一杯こなしており、疲労していた体には大変ありがたい物でした。

フランクフルト→サンパウロ

 こちらの便では、ドイツ人のワールドカップ観戦客が多く乗り込んでおり、シートの空きはほとんどない状況でした。しかも空港の売店で購入したアイスコーヒーでお腹を壊し、非常に消耗しました。

サンパウロレシフェ

 日本対コートジボアールの試合が開催されるレシフェに行く必要があったので、サンパウロで当日の乗り換えをしなくてはいけませんでした。

 時間があまりなく、自動発券機で急いでレシフェまでのTAM航空のチケットを発行して搭乗ゲートまで向かいました。

 サンパウロからレシフェまでの飛行機では隣に日本人の方が座っておりました。この方もサッカーフリークで、大阪在住のセレッソ大阪のファンとのことでした。

 前回の南アフリカワールドカップではレンタカーを借りて、現地観戦をしたという強者の方でした。治安を考えると怖くてとても出来そうに無いですが、車に南アフリカの国旗を立てたら大丈夫だったとのことでした。戦場カメラマンの渡部さんを連想させる穏やかながらどっしりとした物腰であり、どんな状況でも落ち着いて対処できそうな印象でした。

レシフェ到着

 飛行機で隣だった日本人の方と空港からチケットを発券するショッピングセンターまで同行しました。

 時刻は昼過ぎで、ショッピングセンターのフードコートで一緒に昼食を食べました。流石に長い飛行機の旅で、私もその方もヘトヘトで、コーラを乾杯してお互いに疲れを労いました。

 その後にショッピングセンターからタクシーに一緒に乗り込み、私が宿泊するホテルで私だけタクシーを降りてお別れしました。

 ブラジルでもレンタカーを借りて試合会場まで行くが、一緒に行かないかと誘われました。しかし、レシフェは年間殺人事件が1000件ほどと非常に多く、世界の都市でもワースト20位ほどの治安の悪さであり、丁重にお断りさせていただきました。

 ホテルからの市街地の眺めも殺伐としており、いつ犯罪が起きてもおかしくない空気感が漂っておりました。

ホテル(レシフェ)からの市街地の眺め

 

 

東証一部上場企業の製造応援で垣間見た優秀な人が会社から離れる理由

時は2008年~2009年

 リーマンショックの影響で、製造現場の派遣社員さんが一斉にリストラされてしまいました。しかしながら、製造現場での人手は不足している状況でした。

新卒社員、間接部門社員、使えない営業マンを製造応援に派遣

 そこで、会社は上記の会社の戦力にならない社員を製造応援と言う形で、工場に出向させることになりました。

 確かに、普段とは違う慣れない現場作業で大変ではありますが、製造現場では残業代や手当がきっちりと付きますし、もちろんベースの給与が落ちることはありません。

yasuyan.net

役立たずの社員の給料が、会社に貢献している一般社員の給料を上回る

 しかしながら、上記の雇用条件の結果、会社に貢献していない二軍社員の給与が会社に貢献している20~30代前半の一般社員の給与を上回る結果となってしまったのでした。

 当時、私は激務の設計部門に所属していましたが、リーマンショックのリストラの煽りを受けて、残業代はカットされたにも関わらず、業務量はそこまで落ちず、サービス残業を余儀なくされていました。

2013年以降

 このような逆転現象を目の当たりにした若手の一軍社員はアベノミクスで景気が持ち直した2013年以降に続々と条件の良い会社に転職していきまました。その結果、会社の若手には微妙な二軍社員だけが多く残る結果となってしまいました。

日本のメーカーに巣くう悪しき現場主義、平等主義

 日本の伝統的なメーカーでは三現主義という言葉が浸透し、現場を重視しています。もちろんそれはモノ作りにおいて大切です。しかし、現場を重視=現場以外を軽視となっては本末転倒です。

 私が所属していた会社は過剰な現場優遇により、優秀な設計開発部門の人材を冷遇する結果になってしまいました。

 また、高度な知的労働よりも、汗水たらしている現場が偉いというバイアスが働いていたのもそうした事の要因なのかもしれません。

その会社の15年後

 優秀は設計開発の若手人材が流出し結果、革新的な商品が生み出せず、過去の遺産で食っている状況です。

製造応援組に対して

 当時、製造応援に行った方が給料は良いので、製造応援に行った社員の一部は得意げでしたが、自分の普段所属している部署で、戦力として必要とされていれば、製造応援などには出されません。

 申し訳ないですが、自分のキャリアや能力に対して焦りを抱いた方が良いと思いました。

まとめ

 設計は製品開発というのは目に見えない為、一般的にその付加価値を人事などの部外者が評価することは難しいです。従って、その会社の屋台骨を支える仕事をしているにも関わらず、冷遇されることが多いと思いました。

 その結果、有能な若手の離職につながり、その会社の開発力は大幅にダウンしました。そろそろ、目に見える労働は尊いという悪しき労働信仰を捨て去るべきです。

 

 

 

 

 

 

 

PHPフレームワークの理解

フレームワーク

 PHPプログラマーの求人を覗くとLartavel、Fuel PHPなどのフレームワーク使用の経験が要求されることが大半です。むしろフレームワークを使えないと門前払いにもなりかねません。

 しかしながら、コードをやっとこさ書けるるようになったphpプログラミングの初学者がフレームワークと聞くと面食らうでしょう。

参考書で調べてみても

 私もフレームワークとは何なのかさっぱり分かりませんでした。参考書を数冊買って読んでみても、開発環境の構築の説明の後にいきなりMVCモデルの話に飛躍し、何故フレームワークが必要なのか、そもそもフレームワークとは何なのかさっぱり理解出来ませんでした。

フレームワークとは何ぞや?

 webサイトではデータを入力してそれを次のページに受け渡す、さらにそれをデータベースに受け渡す。データベースから情報を引っ張って表示する。といった機能を実装すると思います。

 コーディングすると入力機能とその表示、データの受け渡しと一つのページに様々な機能が混在し、大規模な開発になると機能分担が分かりにくくなります。

 また、実はwebプログラミングは機能が似通っていて、同じコードを何ページにもコピペしていたりします。例えば、ページのヘッダーは常に同じ出ることがほとんどなので、その表示機能だけを保持して、それを常に参照させればコピペは不要です。

 そこで、データの受け渡し機能、データの表示機能、どのページを表示するか判定する機能といった機能ごとに切り分けて、分かりやすくしようという目的でフレームワークが生まれました。

 こうすることで、複数人で開発する際もAさんは表示機能を作成して下さい、Bさんはデータの受け渡し機能を作成して下さいといったように役割分担が容易になります。それをフレームワークではディレクトリ毎に分けて管理します。

 さらにヘッダーに記載したタイトルに変更があっても、そこを参照する部分だけを修正するだけで済みます。これがコピペだと複数ページ全部にコピペで反映させなければなりません。

お勧め参考書

 このようなフレームワークの誕生の背景を丁寧に解説してくれた本が、パーフェクトPHPです。


パーフェクトPHP

 ちょっと分厚くて面食らうかもしれませんが、phpの基本的な文法を理解して簡単なサイトが作れるようになった人が、フレームワークなどの次のステップに進む橋渡しをしてくれる絶好の参考書です。

 その上で、下記のLaravelの入門書を読むと理解がグッと深くなります。


Laravelの教科書 バージョン10対応【電子書籍】[ 加藤じゅんこ ]

フレームワークは適材適所

 以上から、通販サイト、旅行申し込みサイトなどは大規模で複数人が開発に携わるので、フレームワークが必須です。

 しかしながら、個人商店や従業員が数十人規模で社内SEがホームページを手掛けているような会社であれば、正直フレームワークは不要だと思います。

まとめ

 まずは、自分がどのような規模の開発に取り組むのか(取り組みたいのか)を見極めることが大切です。その上で、フレームワークが必要ならば、パーフェクトphpをしっかり読み込んでみてください。私も、この本でフレームワークの何たるかがきちんと理解出来ました。

 

 

湘南戦の思い出

湘南戦とは何か?→県立浦和と県立湘南の定期交流行事

 はい、早速注意点ですが、湘南ベルマーレの試合ではありません。県立浦和高校OBにとって湘南戦とは毎年五月に開催される神奈川県立湘南高校との交流行事を指します。

開催地

 毎年浦和高校湘南高校が交代で開催します。例えば高校一年の時に浦和高校で開催された場合は、高校二年で湘南高校、高校三年で浦和高校の開催となります。

何をするの?

 運動部では同じ部活同士の交流試合をします。サッカー部、ラグビー部、野球部、バスケ部はガチの試合を行いました。テニス部、バトミントン部、柔道部などは団体戦、陸上部、水泳部などはリレーをしたり、記録会を行ったりしてました。

 文科系の部活では活動発表や情報交換などをしておりました。軽音楽同好会はライブなどを行ったり、自分たちの日頃の活動発表の場となっておりました。

 また、部活の垣根を超えた男子同士での騎馬戦なども開催されておりました。

浦和高校は男子校、湘南高校は共学

 これは非常にバランスが悪く、湘南高校の対抗戦では女子選手は試合が組めない事態になります。そのため、湘南高校の女子は浦和高校との対戦では応援に回ることが多い印象で、湘南高校の女子生徒が心底楽しめたかというと疑問が残ります。

 浦和高校は男子校なので、どうしても湘南高校の女子生徒に目が行ってしまいます。そして、男子校であることに軽い絶望感を感じざるを得ないのでした。もちろん浦和高校の生徒は浦和高校が男子校であることに納得して受験し、入学したわけです。しかし、女子生徒の黄色い声援やチアリーダーの存在を目の当たりにし、自分の選択は果たして間違っていなかったのかという雑念や迷いが生じてしまうのです。

 私自身、野球部の応援をしていたはずなのに、向かい側の湘南高校チアリーダーに目を奪われてしまいました。共学いいな、うらやましいなという思いがつのりました。

 このような背景から、部活動の対抗戦を主体に置いた交流では男子校同士、もしくは共学同士にするべきだったかと思います。

 はたまた思い切って、男子校と女子校の組み合わせでフィーリングカップル大会にしてしまった方が良かったかもしれないですね。

湘南の女子生徒をナンパ

 高校三年時、同じクラスので席が前後隣だったI君は、ロン毛の金髪で、通学時の電車の中で他校の女子からラブレターを貰うほどモテモテでした。湘南戦当日、湘南高校で可愛いギャルで鳴らしていたマ〇ちゃんをナンパすることに成功しました。さらに携帯電話の連絡先も交換したようでした。

 こういった浦和高校の生徒が湘南高校の女子生徒をナンパすることが、毎年常習化してたようでした。この事実は湘南高校の男子生徒からの大きな不興を買っており、これが数年後の定期交流戦の廃止へのトリガーの一つであったように思います。(湘南高校OB複数名に確認)

卒業後の意外なつながり

 正直、定期交流戦を行うメリットが見出しにくい現実はありましたが、卒業後に意外と何人かの湘南高校卒業生と繋がりを持ち、それが自分の人生に大きなスパイスとなっていました。そこで、私が高校卒業後に出会った湘南高校のOB、OGを何人か匿名で紹介いたします。

・国際シンクタンクに勤務しているSさん

 この方には大学時代の就職活動でお世話になりました。SNSのグリーでひょんなことから繋がって、その後やり取りを重ねるうちに湘南高校卒業生であることが判明しました。私が浦和高校の卒業生であると伝えると非常に親近感を持って下さり、お仕事の事や進路相談のお話の為に、実際に会っていただけることになりました。

 年齢は私の10歳上の女性の方で、時々テレビで国際政治情勢などについてコメントをされる方でした。そんなすごい方が、過去の定期交流戦を行った相手校の卒業生の若造に実際に会って話していただけることに非常に驚愕しました。

 話の内容は非常に高度でありながら、話し声はちびまる子ちゃんのまるちゃんに似ており、そのギャップが印象的でした。

 確か、銀座で待ち合わせて、カフェの個室を予約していただいて、色々とお話を聞かせていただけました。165cmくらいのすらっとしたスタイルで、パンツスーツを見事に着こなし、話を終えるとダッシュで職場に戻って行きました。お会いしたのは11月位だったのですが、パンツスーツにダウンを着こなして、急いで職場に戻っていく後ろ姿にカッコよさを感じました。

・医学部生のS君

 彼とは大学在学中の山形県の合宿免許で出会いました。色んな大学の出身者で集まって、大学トークで盛り上がっていましたが、出身高校にも話が及んだ時にS君は湘南高校出身であることが判明しました。

 年齢は私の一個下だったので、定期交流戦の時にどこかで遭遇していたはずでした。全校生徒参加型イベントの大玉転がしで話は大盛り上がりしました。

 しかしマ〇ちゃんのナンパの話をしたら、滅茶苦茶に顔をゆがめて、正直浦和高校ウザいんだよねっと開口一番吐き捨てたのが印象的でした。やはりマ〇ちゃんは湘南高校でも人気の女子だったようでした。浦高生がうちの高校の女の子に話しかけるのマジで止めて欲しかったと非常に迷惑そうな顔をしていました。

早稲田大学理工学部のT君(現在は政府系金融機関に勤務)

 彼とはノルウェーの旅行の時に現地で知り合いました。年齢は私の七個下です。フィヨルド公園のバス乗り場で、Are you Japanese?と話しかけたら、Japaneseと回答してくれて、フィヨルド公園から市街地まで一緒のバスで帰りました。大学が早稲田で高校はどこかと尋ねたら、湘南高校と回答し、そこから大盛り上がり。

 残念ながら彼の在学中は湘南高校との定期交流戦は廃止になった後だったのでした。しかしながら、昔浦和高校交流戦をしていたことは先輩から語り継がれていたことと、部活単位での交流戦は行われていたようで、浦和高校の事に親近感を感じていてくれたようでした。

 市街地に帰った後で食事をおごって上げようとしましたが、クレジットカードが使用出来ずに、彼に金を払わせるという失態を犯しましたが、日本帰国後には何回か食事をご馳走したり、彼の就職活動の相談に乗ったりしました。また、私が読み終えた小難しい本を貰ってくれて、それを律儀に読んでくれたりと、向学心が旺盛でした。

 大学院は京都大学大学院に進学し、鴨川の河川敷のサッカーに誘ってくれたりして、非常に楽しい思い出を作らせて頂きました。

 卒業後は政府系金融機関に就職し、現在は大分出世したようで、アメリカへ社費留学しているようです。私を遥かに飛び越えて行ってくれたそんな彼の活躍が微笑ましく、そして誇らしく感じます。  

 

○彼と出会ったノルウェー旅行

https://yasuyan.net/entry/2022/02/13/191206

 

・三浦瑠麗氏

 現在旦那様の逮捕で世間をにぎわせている国際政治学者ですが、この方とは直接面識はありません。しかしながら、年齢は私の一個上なので、おそらく二回は対抗戦で同じ場所に居合わせた筈です。

 正直、彼女の選民思想的なスタンスからの発言や論拠の薄い意見を男性的な断定口調で言い切ることで論拠の弱さをカモフラージュするテクニックなどコメンテーター及び国際政治学者として首をかしげたくなる事も多いです。彼女の本を読んでみましたが、内容は殆ど頭に残っていません。

 嫁と一緒に情報番組を見ていると、三浦氏の発言のターンで嫁はいつもチャンネルを変えます。女性からの支持はいまいちかもしれません。

 しかしながら、湘南高校出身という事実を知ると、何となく親近感を感じるようになってしまいました。

学歴は大事かもしれない

 私自身は、どこで学ぶかよりも何をどれだけ学ぶかを重視しています。しかしながら、卒業後にひょんなきっかけで、意外なつながりが構築され、人間関係が大きく広がったのは、こうした学歴が要因だったことは否めません。

 国際シンクタンクに勤務していたSさんだって、私が浦和高校の卒業生じゃなかったらおそらく会わなかったと後日述べてくれました。

 はっきり言って、浦和高校湘南高校の対抗戦は一年の内でたったの一日の中の八時間、三年間でも24時間しかありません。

 それでも卒業後の長い人生で、24時間以上の濃密な時間を湘南高校卒業生と過ごせた。そして、これからも新たな出会いを通じて、過ごせるかもしれない可能性を頂けたことに感謝しかありません。

 ワザワザ電車に乗って遠出して、相手校まで行くのが面倒だ、自分の学校の女子生徒に手を出されたくない。その気持ちは高校生であれば、非常に分かります。

 しかし、その面倒くささや煩わしさが、卒業後大きな糧となり得ます。是非、県立浦和高校と県立湘南高校との定期交流戦の再開をOBとして願って止みません。

 

 

 

 

 

 

 

使えないオッサン営業社員Sさん

本社のオッサン営業社員のSさん

 10年以上前に新卒で勤務していた会社にSさんという役職の無いオッサン社員がいました。その方は本社の代理店営業担当で、週に一度ほど、技術部に電話の問い合わせをしてきます。

しかし、その引き合いの数量がまさかの一個といった衝撃の案件ばかりを毎回引っ張ってきました。単価は数百円なので、一つ売ったところで採算がとれません。今、この瞬間に電話で話している時間の人件費で数百円の単価を上回り赤字になってしまいます。

 数百円の部品ならば、最低1ロット1000個は売らないと採算が取れません。

 さらにタチの悪いことに久々に1000個単位の引き合いを引っ張ってきたと思ったら、生産終了品の再生産依頼。

 本当に面倒な引き合いしかとって来れず、設計に話をつないだらすぐにしれっとトンずら。設計に無理な引き合いをお願いしている罪悪感もありませんでした。よって、納期をギリギリまで後ろに引っ張って少しでも設計を助けようという気概も0でした。

 

非効率な営業慣行

 なぜ、そんな非効率な事を日本企業は行っていたのでしょうか?当時は代理店や顧客ごとに営業部員を配置していました。いくら数量が少なくとも、営業マンは過去に付き合いのあった担当顧客や代理店を無下には出来ませんでした。

 さらにエスカレートすると一度生産終了した製品でも、顧客から無理を言われて、設計部に無理やり再生産をねじ込まれることが何度もありました。

 一度生産を終了したので、図面も破棄されている場合も多く、そうした場合は類似製品や過去の手書きの図面などから推定して、設計者がCADで図面を描き直さなくてはなりませんでした。

 営業マンは売り上げを向上させることが仕事の筈なのですが、実態は担当顧客の御用聞きに終始していました。よって、新規市場も全く開拓できませんでした。

 

設計はサービス残業

 量産品の手配や設計検証だけでも多忙なのに、生産終了品の再生産まで対応するには夜中まで残業するしかありません。その残業も大抵はサービス残業でした。その反面、生産終了品の再生産の無茶な要求をねじ込んだ営業のオッサンは悠々と定時退社。

 そんなしょうもない引き合いを取って来るのではなく、ロット10K以上の量産品の引き合いを取って来いよと心の中で叫んだものでした。

 

担当営業のオッサンがいない方が会社の為になる

 正直、オッサン社員のメンツの為に無駄な残業をしていた訳です。そのオッサンがいなくなってくれれば、自分は早く帰れます。なんだろうオッサンの雇用を守るために若手の設計部員は人柱になっていたんだと思うと涙が止まらないです。

 

営業マンそれぞれが売り上げ達成目標を持つべき

 前述の営業方式では、数量の少ない取引にも営業マンを貼り付けなくてはならず、非常に効率が悪いです。そこで、営業マンは担当顧客を固定せずに売り上げ目標を持たせ、それを達成するならば、どんな製品を売っても良いというシステムを導入すべきだと感じました。

そうなれば必然的に数量が多く流れている量産品を販売するでしょう。目標の売り上げ目標を達成できなければリストラすれば良いのです。

 

まとめ

 日本企業特有の縦割りの弊害もあり、頑張っても報われなかったですね。仕事が増えるだけで給料は変わらなければ、そりゃやる気無くなりますよね。

 日本だとリストラ=悪というイメージが根強いですが、企業は営利団体なので儲からない余計なお荷物社員は会社からいなくなるべきなんですよ。

 このエピソードは新卒で入社した企業で東証一部のグローバル企業(日経平均にも採用)だったんですが、そんな会社がこんな体たらくじゃ、そりゃ日本も沈みますよね。

 リーマンショック後の事業再編で、事業部の名前を適当に変えて改革のアリバイ作りだけやっただけなのには本当にがっくり来ましたね。

 現場の派遣社員はリストラしましたが、本社の営業のオッサン社員は正社員という事でリーマンショックの後も余計な仕事だけ増やしてヌクヌク働いていた姿には本当に怒りを感じました。